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整体と気功 内田整体院

トップページのコラムのバックナンバーです。

コラム 2011年12月26日 マッピング

整体院と言うからには、普通は真っ先に書くようなことを書いていなかったように思います。身体のこと、骨格とか、筋肉とか、正しい姿勢、…etc.

どなたにでも当てはまるように書こうとしてしまうので、なかなか手をつけずにいました。しかし、たいていのクライアントさんに共通して一度はお話ししていることがあります。それを書いてみましょう。

不都合なマッピング・骨格構造の錯誤です。
背骨は、どこにあるのか、だいたいの方はおわかりだと思います。触ってみましょう。こう、首の後ろに手をやると、頭との境の辺りから下へ、背中の真ん中を縦に通って、腰へ、ズボンにちょっと手を突っ込んで、尾てい骨まで、突起状の物が並んでいるのを触ることができます。そして、それらは全体としてゆるやかに前後に湾曲しているのが観察できると思います。横から見ると、アルファベットのS字のようになっています。歩いたりした際の振動が脳に直接伝わらないよう、背骨全体をしならせて力を分散させやすくしているようです。

まあ、このS字の度合いは人によって様々ですから、ここではあまり気にしないでいいです。かくいう私の背骨は、実にまっすぐ、すとんてな感じですが、なんら不都合は生じていません。また、横に湾曲、いわゆる側湾や、捻れが見られる方もあるかもしれません。これも、また不都合がなければ、そして、成長期でなければ、ここでは個性ととらえるのがよいとしておきましょう。このコラムを読み終わる頃には、多少変化がみられるかもしれませんし…。

そもそも、模型みたいな骨格の人は少ないのではないでしょうか。人には右利き左利きというのがあって、それは、手はもちろん、足、耳、目、鼻も息のしやすさがありますし、笑顔にだってあるのです。それに伴って左右の筋肉の付き方は微妙に異なります。第一、内臓の配置が左右対称ではありません。普通は重量のある肝臓が右側に張り出しています。だから、左と右の対称というのは大まかなもんです。それだけで十分凄いなあと、私などは思ってしまいます。

よく、こうした構造の乱れをもって、身体の不調の原因だとお考えの先生もいますが、それはそれで間違っているというわけでなく、単に私はその考えを重要視していません。そういう私がみると、構造の乱れの観察できた方全員に不調があるとは限らないようにみえます。逆に乱れまくっていても、元気にニコニコ生活していらっしゃる方を多く知っています。

ちょっと話が横道にそれました。もとに戻します。
背骨を触って確認したところでした。この背骨はいくつか役割がありますが、その1つに柱のように身体を支えるというのがあります。では、この背骨、どこで体重を支えているでしょう。背中側から何センチぐらいのところで身体を支えていると思いますか。

1センチ、2センチ、…、いかがでしょう。どの辺で体重を感じているでしょうか。

一般的な体型の方ですと、背中とお腹の真ん中ぐらい、身体の中心を重心は貫いています。指で触れることができたのは、背骨の突起です。皮膚をはがしてみたら、ステゴザウルスのような突起があるのです。背骨の一個一個は椎骨と言って、首が7個、肋骨が付いている胸が12個、腰が5個、それから、だいぶん形状が異なりますが、骨盤に含まれる仙骨と尾てい骨があります。椎骨は茶筒を少し平べったくしたような椎体と突起からできています。この椎体が体重を支えるのを請け負っていて、それは、身体の真ん中ら辺にあると思っていただければよいです。(ちなみにこの椎体と椎体の間にあってクッションの役割をしているのが椎間板です。)そして、椎体は積み重なって、下にある物ほど太く頼もしくなっています。ですから、どんな運動をしても、この骨たちを信頼して支えてもらっておけばいいのです。

ところが、先ほどの質問で、1センチや2センチなど、背中側で支えていると思い込んでいた場合が問題なのです。無意識のうちに身体の前側を支えようと、後ろに体重をかけてしまうからです。極端に表現すれば、腰を前に突き出し、腰をそらせます。でもバランスがとれないので肩や顔を前へ突き出します。そして、背中を緊張させます。某応援団の団旗を四六時中捧げ持っている感じです。くたびれます。痛くなります。

その瞬間、怒りが発火するのが分かりました。しかし、同時に、とぼけた声で、何に怒るってんだよ〜。という、私の中の待ち構えていた部分が働きます。怒りは、あれれ?と肩すかし。私は想定通りにうまく行ったので、ニヤリとして歩き続けます。

では、どうすればいいかと言うと、1つ1つの椎骨が身体の真ん中にあるのだと思い直して、体重を預けることです。これだけで、だいぶん解決しやすくなります。

頭の中のイメージ、思い込みで、現場に違う指示を出してしまっているのです。こういうのを骨格構造の錯誤と言います。地図を見ながら歩くのに間違えた地図を使うと大変です。身体の構造を正しく頭の中にイメージする、マッピングするのが得策です。首だけを捻って真後ろを見ようと努力するのは自由ですが、それが無理なことに気づいた方がいいのと一緒です。こうしたことは、意外にも専門家であるはずの医師ですら錯誤しがちです。「そう言えば、そうだよな」と、よく言われます。

背骨ついでにもう一つ。
お辞儀するとき、物を拾うとき、身体をどこで折っていますか。
ベルトライン、腰骨の上…、
これも錯誤を起こしやすいところです。

ベルトライン、そこに折れる関節はありません。背骨は丸めたり反ったり、くねくねしたりはできますが、きっぱり折れ曲がるのは苦手です。お辞儀するとき折れるのは、股関節です。ですから、きれいなお辞儀というのは、背中をまっすぐに保ちながら、股関節を曲げるのです。それは、身体の構造にも適っています。

物を拾うときには、股関節と膝関節をいっぱい使い、足りないところがあれば、背中を丸めるのを追加します。その方が楽なはずなのですが、なぜか楽と感じない人が多いようです。わざわざ腰に苦を押しつける必要はないはずなのですが…。

この楽と苦が分からなくなった状態に似ているのが、足を投げ出して椅子に座るというやつです。列車内での迷惑行為の1つになっています。

この座り方、安楽と認識しているのは頭だけです。背骨は背中の中途半端なところで折り曲げさせられ、胸は圧迫され、横隔膜が動きづらいので、呼吸が浅く、酸素供給が悪くなっています。

そこそこ頭が安楽を味わったら、座り直して、今度は身体に安楽を味わわせてあげた方がいいです。そうでないと他人への迷惑行為より、自分自身への迷惑行為になりかねません。

どなたでも、頭の中に自分の身体構造のイメージを持っています。このイメージがあるから、机の上の物に手を伸ばすことができますし、椅子に座ることもできるのです。このイメージと実際の身体とのギャップを観察すると、しなくてもいい無理をしていることに気づいたりします。首はどうでしょう。肩は、肘は、手首。膝、足首…。続編を書くつもりでいます。それを読む前に、年末年始、ご自身で注意深く身体を観察してみてはいかがでしょうか。

ついでに、頭は食べたいと思っていても、身体はもう満足…みたいなことに気づけるかもしれません。

いろいろあった今年ももう暮れます。
よい年をお迎えくださいますように。
ありがとうございます。


コラム 2011年10月3日 事例:階段落ちと右足首2

右足首のその後です。
前回、カーブドッチを書きましたので、よくなっていると思われた方…、その通りです。
また、タイトルの「階段落ち」に蒲田行進曲を思い出された方…、はい、書きながら私もつぶやきました。「ぎんちゃ〜ん」。

ところで、このコラム、病院へ行かない方がいい、などということを言いたいのではありません。行くべきときには、行った方がいいです。私の場合、一夜明けたときから、ちょっとした実験みたいな感じになっていました。もちろん、ギブアップになったら病院へ行くつもりでいましたが、いわゆる治療らしきことは湿布等を含めしていません。やったことは、よく動かすことと、無意識にさすってしまうこと。それと、自分自身の心を観察することです。

さて、階段落ち直後の日曜日です。この日は、三谷幸喜・作・演出の「ベッジ・パードン」を観に出かける予定でした。場所は、三軒茶屋にある世田谷パブリックシアター。普通に行けば、横浜駅と渋谷駅で乗り換えて、1時間程度です。たどり着いてしまえば座っているだけですし、移動の大半は電車に乗っているだけです。歩きが必要なのは、道中の初めと終わり、それに2回の乗り換えのときです。ほんの少しの歩きとは言え、不安は否めません。右足はいまだ倍にふくれあがったままですし、床につけるたび痛みます。それでもなるべく垂直に、しかもそっと瞬間的に床につけるのであれば、なんとか我慢できます。これを行かない理由にはしません。

もちろん、相当な時間の余裕、靴紐の余裕、それと勇気をもって出発です

家を出て早速、道というのは真っ平らではないと思い知ります。なるべく平らな真ん中を歩いていれば、車が来ます。脇へ避けるのになにしろ時間がかかります。しかたなく、端の方を歩くのですが、一歩一歩がなんとも…、無理かなあ、いやいや、…大丈夫、…いまのうちなら、…いやいや…。行くと決めているのに葛藤です。

時折、前方から人が来ます。普段ならさっさと避けてしまうのですが、今日はそれが難しい。立ち止まってしまい、避けてくれるのを待ってしまうのです。ある高齢者のときもそうでした。すみませんねえ、と、再び歩き出した時です。私はハッとしました。自分が必要以上に足を引きずっているのです。

ほほう、道を譲ってもらったことで、罪悪感が出てきたのでしょう。素直にありがとうと言えないばかりか、痛みを強化するなんて、やっかいです。

このような場面で、避ける側の立場はどうでしょう。何とも思わず避けるだけ。お互い様なのですから当然です。と、できるでしょうか。私自身は、できるとは言い切れません。急いでいるときだったりすると、駅の改札付近などでイライラしてしまうことがあります。避けてやってんだ、なんて風に。まさにその経験こそが、このたびの罪悪感と呼応したのかもしれません。情けは人のためならず、本来の意味をかみしめる必要があります。

私はおもしろがることにしました。できるだけ普通に歩くことを心がけながら、この先もいろいろ気づくことが多い日になるだろうと予感します。

ようやく駅前の歩道に出ます。そこは平らとはほど遠く、車道に向かって傾斜しています。これがつらい。あと50メートルがなんて遠いのか。などと思っていれば、自転車がそこのけと言わんばかりに走ってきます。私は避けられないので、突っ立ったまんま。そこへ、店から子供が前も見ずに飛び出してきます。私は、とっさに衝突を避けようと踏ん張ってしまい、うめき声を出してしまう。

その瞬間、怒りが発火するのが分かりました。しかし、同時に、とぼけた声で、何に怒るってんだよ〜。という、私の中の待ち構えていた部分が働きます。怒りは、あれれ?と肩すかし。私は想定通りにうまく行ったので、ニヤリとして歩き続けます。

この場合の怒りはなんでしょう。被害者意識の発露かもしれません。私はこんなに痛いのに、だれも分かってくれない。あるいは、なんだってこんな怪我をしちまったんだ、とか、思うとおりに動かない身体にイライラ、とか、自分を怒っているのかもしれません。いずれにしても、こんな怒りは役に立ちません。それどころか不適切に怒りを放出すれば、その正当性を担保するために、私は痛みがひどい状態であることを許容することになります。と同時に罪悪感を背負い込んで、自虐的にならざるを得ないでしょう。だれかに怒りを向けるなんてことは、痛みを強化するのと一緒です。強化された痛みは、より怒りを喚起し、それがまた痛みを強め…てなことになってしまいます。一般的に感情は溜め込まず、しっかり表現するのが一番なのですが、殊、怒りに関しては、その底に自分が何を隠そうとしているのか注意深く観察し、適切に表現した方がいいのです。

私は痛みに従わないと決めています。ですから、怒りなんかが出てきそうになったら、茶化す気満々でいたのです。とっさに出ようとする怒りをユーモアで受け止めるのは、TPOを優先するときには有効です。ここでうまくできたことは、道中をだいぶ楽にしてくれました。いちいち怒ってなんかいられない場面がたくさんあるのですから。

たとえば、エレベーターの位置が遠いとか、分かりづらいとか。点字ブロックをうっかり踏むと痛いとか。渋谷駅の乗り換えには階段を使うしかないとか。極めつけは…

ホームで待っていると、目の前に止まった車両はうれしいことに空席が目立っていました。私はいそいそと乗り込みますが、他の人ほど早くは歩けません。瞬く間に空席はなくなってしまいます。私は、仕方なく吊革につかまり、右足を浮かせて立ちながら、あるクライアントさんの言葉を思い出しました。ちょうど抗がん剤で苦しい時期にポツリと口にしたのです。「本当に座りたい時には、座れないんだよな」

まさにそうです。実感できました。ありがとう。
そうこうして、劇場に辿り着きました。

中に入りますと、すかさずスタッフが近づいてきます。「お客様、お足が具合悪いようでしたら、エレベーターをお使いになられますか?」

ちょっとびっくりしました。客席に向かうには階段を使うしかないと思い込んでいましたし、それよりなにより劇場に足を踏み入れた瞬間に待遇が一変したように感じたからです。まあ、それだけ、ここまでの道中が大変だったと感じている私がいるってことでしょう。せっかくです。私は素直にお願いしました。

すると、スタッフの一人が案内してくれます。まるで私専属の係であるかのように、エレベーターに乗り、座席まで連れて行ってくれます。そんな珍しいことではないのでしょうが、悪い気分ではありません。だから、危険です。些細なことのように見えますが、この特別扱いされている気分は、これまたやっかいです。それは痛みによる利得だからです。痛みがあってこそ得られた状況です。痛みがなくては困るのです。そして、おそらく知らず知らずのうちに、痛みをだしに、他者を利用したという罪悪感が降り積もります。これに気づかずにいれば、痛みが定着するアンカーになってしまうでしょう。私は冷静に自分の心の動きを見つめました。…大丈夫です。これ、きっとコラムに書くぞ。

前回の右足首コラムは、置かれた状況をどうみるかでした。今回は、もう少し深く見つめて、自分の行動と周りの状況、その関係を通して、自分の心に何が生じ、それにどの程度気づくかです。罪悪感、怒り、利得といった代表的なものが出る場面を書いてみました。しかし、なぜ、これらに気づく必要があるのでしょう。それは、自分の人生でどのような経験を望み、どのような選択をしようとしているか、そこに自覚的でいるためです。罪悪感を持っていることに気づいていなければ、穴埋め行動や自罰的行為となって、いずれ現れてしまうでしょう。怒りや利得もまた然りです。また、これらには様々なヴァリエーションがあります。その辺も含めて、別の機会に詳しく取り上げて書くつもりでいます。

以前から書こうとしながら、手つかずにいた内容です。階段から落ちたおかげで書くことができました。階段に感謝です。それと、文中にはあまり登場させませんでしたが、じっとそばにいた妻にも感謝です。
最後にその後のその後です。

その2週間後の日曜日、府中にあるサントリー武蔵野工場へプレミアムモルツ講座を受けに行きました。工場見学の際には階段の上り下り等あったのですが、何の支障もなく楽しめました。

その次の週にはカーブドッチへ行き、その次の週にはワイン会…、細かいイベント盛りだくさんの夏。仕事中、クライアントさんたちには、気づかれることなく過ごせました。また、受傷後1ヶ月で、正座もしゃがむこともできるようになりました。20数年前、山道で似たような怪我をしたことがあります。そのときよりは早い治癒だったと思います。

あっと、それから「ベッジ・バートン」はとてもよかったですよ。


コラム 2011年8月29日 カーブドッチ

今回は、階段落ちの続き、ではなく、夏の旅のことを少し。
急に思い立って、ダメ元で電話をしてみたら、予約が取れましたので、出かけることになりました。
行き先は新潟・カーブドッチ。
まず、新潟と言えば、寿司を食べなきゃ…。
新潟駅近くの寿司屋へGO

これはごく一部…。うまかった〜。

ばかうけ展望台からの景色を一枚。
8月の上旬のことですから、豪雨があった直後です。
信濃川と日本海の境目がくっきり。

越後線で内野駅まで行けば、お迎えの車で、カーブドッチへ。

スパ&宿泊棟。いい温泉です。

部屋からは葡萄畑が広がっているのがみえます。

薪小屋。地ビールや燻製も作っていて、ここで食べられます。

メインレストランの前の噴水。

猫がたくさんいます。全員に名前がついていて、オーナーの落さんが呼ぶと走ってくるんです。

とにかく南仏プロヴァンスのような、くつろげるところ。

こちらはカーブドッチの地下カーブ。ワインが熟成中。

隣にあるフェルミエ。カーブドッチで修行して独立した人のワイナリー。
イタリアンの食事もできます。
試飲したところ、好みのタイプ。買い込みました。

敷地の中はゆったりした時間が流れています。
おいしい匂いも流れています。
食べ物の写真はあまり載せてないですが、おいしすぎて…。
次回は数日滞在できるといいな。

カーブドッチ http://www.docci.com/

フェルミエ  http://fermier.jp/

コラム 2011年7月29日 事例:階段落ちと右足首

7月15日金曜の夜のことです。
私、階段を踏み外し、こけちゃいました。
事例については、プライバシーのことがありますので、なかなか書くことが難しいのですが、私自身のことであれば問題ありません。

と、言うことで、その瞬間からの経緯を書いてみます。

あっ、と思った時には、右足が変な風にねじ曲がり、痛みと熱が身体中を駆け巡り、叫び声を上げていました。
と、同時に右足首の構造が壊れるイメージを持ちました。一応、仕事が仕事ですから、構造を知っちゃっています。ですから、余計なことに、とてもリアルにイメージを浮かべているのです。
そんなイメージが助けになるわけはありません。痛いのです。息もできないのです。うめき声を上げることで、ようやく酸素を確保しているようです。

頸骨(すねの2本の骨のうち、内側くるぶしの太い方)が折れたかなあ。手術。ああ、この日曜の予定も、夏の計画も、ご破算か。仕事はどうしよう。予約、キャンセルしなくてはいけないだろうな。などという、これまた余計な考えが浮かびます。

あまりの痛さに、のたうち回りたいのですが、右足首を両手で抱え込んだまま、身動きできません。
ふと、気づけば、右足首以外は無事のようです。頭は打ってないようですし、両手と左足、右膝と右股関節は自由に動かせます。ラッキーです。痛くてどうしようもない中で、階段を落ちてから、最初のラッキーに気づきました。そういえば、「頭打ってないんだ、よかったよかった」と言う妻の声が聞こえていたような気がします。

次いで、楽な姿勢になることを考えました。
2番目のラッキーです。私が倒れているのは、階段の途中ではなく、一番下です。寝室のベッドまでほんの少しのところです。私は、両手と左足と尻を使って、ベッドの方へ移動することを試みました。さすがに、妻に私の身体を動かせるとは思えません。だいたい、あまりの痛さに、どこにも触れて欲しくない感じなのです。一つ動くごとに気が遠くなるような痛みです。それでも、私は必死にベッドにたどり着きました。

さて、ベッドに横たわると、ほんの少しですが身体の力が抜けました。自分で自分に技を仕掛けるには…、痛すぎて客観化できないので、うまくいきません。他にできることは…。右足指がかすかに動かせます。これもラッキーの一つです。私は、最初のイメージを書き換えようと思いました。構造が壊れるイメージを、構造はどこも正常で、しっかり機能しているのだと。

それから、日曜の予定も夏の計画も、滞りなく実行され、仕事は淡々とこなしていくのだと。私は呪文のように新しいイメージを繰り返し見るようにしました。
その日はそこまでが精一杯でした。私は気を失うかのように眠りに落ちました。

翌朝は、早く目が覚めました。
治まっていて欲しかった痛みに起こされたのです。まあ、痛みの強さは受傷直後よりはましかな、くらい。おまけに、足首から先が倍の太さに腫れ上がっています。でもです、足指は動きます。足首は、そっと動かしてみると、動かせます。なんてラッキーなのでしょう。 それでは、立ち上がってみるべきでしょう。
そろそろと足を下ろし、体重をかけます。痛っっっ…。

しかし、壁に手を添え、家具につかまるなどして、ぴょんぴょん。多少響きますが、慣れてくればうまいもんです。
ここに二つの方向があります。痛みに従うか、痛みを従えるか。

痛みに従えば、痛みを理由に様々な行動を取ることになります。痛くてできないということも行動に含みます。痛みのしもべになったかのようになり、かなりの自由を放棄しなくてはならないでしょう。この方向を極めることは、痛みの拒絶ではなく、歓迎です。もし、痛みがメッセージを持つとすれば、それをくみ取りやすい態度だと言えます。

痛みを従えれば、それはもちろん痛みがなくなることではないので、痛くてできないこともあるかもしれません。ですが、痛みを第一の理由にしないということです。私の主権は私にあるということです。それはまた、痛みの実在を退ける態度です。
どちらがいいとか悪いとかではありません。多くの場合、無意識にその間を行ったり来たりします。

実際のところ、受傷直後の私は完全に痛みに従っています。たぶん多くの人がそうすると思います。しかし、どちらの方向を採用するかは、意図的に選択が可能です。私も、しばらくして、選択を開始しています。ラッキーと記しているところがそうです。細かくラッキーを拾おうとしています。また、最大のラッキーは、この文章を書こうと思いついたことです。

反対に拾わなかった選択肢もあります。アイシング(氷で冷やす)や湿布などは最初から思いつきもしていません。また、指が動かせた段階で、病院へ行くという選択肢も当面見送られています。

次回は、この後に続く選択の場面をもう少し書こうと思っています。
それと、足の写真をお目に掛けるかもしれません。
乞う御期待?????


コラム 2011年4月8日 こんなときにこそ、うまいもの 井土ヶ谷

この辺りでは、桜がそろそろ満開になりそうです。
皆様、いかがお過ごしですか?
もちろん、被災地、被災者、またボランティアの方々への思いを抱きつつ…。
淡々と一輪一輪咲いてゆく桜を見上げましょう。
街へ。そして、うまいものです。そこには、今日も準備万端、工夫を凝らして待っているプロフェッショナルがいます。

本日紹介は、いよいよ登場「ビストロ ふうじん」です。本当はひらがなではないのですが、変換不可能なのでひらがなで表記します。「ふう」は「浮」の部首さんずいを火偏にしたもの。「じん」は人です。ホームページはありませんが、検索すれば、どこかで誰かが書いています。まずは、井土ヶ谷界隈で筆頭に挙げられる店でしょう。

場所は、井土ヶ谷駅の改札を出たら、目の前の道路(環状一号線)をマルエツと奉祭殿の側へ渡って右へ、マツモトキヨシの前を通り、あとは脇目もふらず歩道を一直線。井土ヶ谷の交差点で平戸桜木道路を渡り、さらにまっすぐ。もう一つ信号を渡り、アリラン飯店(知る人ぞ知る)を過ぎ、タクシー飛鳥交通の手前です。けっして桜がきれいだからと言って大岡川を渡ってはいけません。昼と夜の営業。ただし、祝日でない月曜日と、火曜日のランチがお休みです。
ウッドテラス造りの入り口から中へ入れば、4〜6人がけのテーブル二つとカウンター6席ほど。店主夫妻が迎えてくれます。私はたいていカウンターに座ります。いつだったか寿司屋のカウンターが理想なんだと言っていたお二人との会話も味のうちです。店主はとっても個性的です。まあ、どん風かは…、実際にお話ししてみてください。

3月も終わろうかという日、久しぶりに訪れたこの日もカウンターに座り、おまかせで。ドリンクは生ビールから始めました。何枚か写真を載せておきます。撮る前にうっかり食べてしまったものもあるので、全部ではありません。私と妻に別々のものを出してくれたりします。

そして、会話は自然と地震の話になりました。食材は今のところ何とかなっているのだけれど、と言いよどみます。
秋田出身の店主夫妻です。どなたか被災した方が…。

その通りでした。友人知人…。大船渡や釜石で連絡がつかない方も。日夜、グーグルのサイトに目を凝らして捜し続けているとか。すぐにでも駆けつけたい、じっとしていられない。そんな感じも伝わってきます。

私は、思わず東北の酒を注文しました。
心の中で、グラスを捧げます。
昔、泊まり歩いた民宿のおじさんおばさんの顔…。海の幸、山の幸…。
ふと我に返り、目の前の料理…、うまい。
うまいものを口に運ぶとき、今この瞬間が扉を開きます。うまいものは、そのことを私に思い出させてくれます。微笑みとともに。

そして、デザートは、ふうじん特製・ザッハトルテ。
本日も、またおいしくいただきました。
ごちそうさまです。

今日はもう1件、近くにできたカフェをご紹介します。
ふらっと入って、おいしかったので、ランチに、お茶に、何度か出かけています。
実は、ここのスイーツ、あのふうじんが絶賛したのです。もちろん、私も絶賛です。
場所は、当院からですと、まっすぐ平戸桜木道路へ出て、信号を渡り、草津湯の裏。青いひさしにカフェ・くくるの文字。中に入れば、古民家風。からだに優しいおいしいものがいっぱいの予感がするはずです。
http://cafe-kukuru.com/top
当院でのセッションの前や後、ちょっとくつろぎたいときに、いかがでしょう。


コラム 2011年3月14日 ハートをオープンにして

このたびの地震災害の被害に遭われた方に、謹んでお見舞い申し上げます。

今年の目標であった、月一の更新もならず早3月。久しぶりの更新がこのような言葉から始まろうとは思いもしませんでした。
当時、私はセッション中でしたから、とにかくクライアントさんの安全確保に努めました。そのため、実際なにが起こったのかを知るのは、しばらくたってからとなりました。
唖然、呆然、テレビの情報に我が目を疑いました。我が家のたった一つの地震の傷は、棚から落ちた植木鉢が割れて、その土砂が居間に散乱していることでしたが、その中に立ちすくんだまま、しばし、呆然としていました。
不安、恐怖、心配、驚き、怒り、悲しみ…。
様々な感情が渦巻き、澱のように沈殿して行きます。
私はふと我に返り、ハートをオープンに保とうと決めました。
感じるものは感じるままに、認め、寄り添い、流れ行くままに。
それらが、やがて愛に道を譲ることを確信しているから。
恐怖からの行動は、買い占めや奪い合いを生みます。
愛からの行動は、譲り合い、分かち合いを生みます。
いまこの震災をきっかけに、地球上から様々な感情の雛形が押し寄せてきています。
一人一人が、ハートをオープンに保つことで、すべての感情がよどみとなることなく、流され、大きな愛に変換されること。そのことが望まれるのではないでしょうか。
ここ数日の報道を見るたびに、私はこのようなことを思うのです。


コラム 2010年12月28日 行く年来る年

そうこうするうちに年末年始となりました。いつまでもあじさいのままなのも…ってことで、ご挨拶です。

年末は、さまざまなイベントが目白押し…

クリスマス

ミートパイ

ブッシュドノエル

食べてばっかじゃないの。遊んで〜

牡蠣づくし。やっぱり飲み食い…

こうして年は明け…

初夢は…

2011年、当院の開院、十周年という記念すべき年になります。
こうして続いてきたのも、皆様のおかげです。ありがとうございます。
末筆ではございますが、皆様のますますのご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。


コラム 2010年7月5日 明月院〜大船うまいもの〜花傑作選

わたしのところから保土ヶ谷駅まで、徒歩20分ぐらいです。バス便も多数あるのですが、歩くことが多いです。保土ヶ谷駅という駅名は、ちょっとまぎらわしいかもしれません。最寄りの京急線・井土ヶ谷駅と一字違いです。保土ヶ谷駅は、京急線ではなくて、JR横須賀線になります。駅の脇を国道1号が走り、お正月には箱根駅伝の選手たちが走ります。この保土ヶ谷駅から電車に乗って、鎌倉方面へはよく散策にでかけます。乗車してしまえば、北鎌倉駅や鎌倉駅まで20分弱。家を出てから、1時間もしないで、古都の雰囲気を味わえます。海に、山に、社寺に…、もちろん、うまいもの…。

先日(といっても6月の上旬です。なにしろ書くのが遅いものですから)、予約がなかったので思い立って、朝早くに家をでました。それでも遅かったくらいです。もっと早出の人たちで、北鎌倉駅は混雑が始まっていました。皆さん、考えることは同じです。あじさいで有名な明月院へ向かう人たちばかり。まさに私もその一人なのですが…。

そぞろ歩いて、明月院です。このときのあじさいの咲き具合は、まだちょっと、そうですね、一、二週間ほど早かったかなという感じでした。それでもじゅうぶん楽しめました。何枚かそのときの写真を載せます。

問題は明月院の後です。ランチをどうするか。明月院のこの人出だと鎌倉周辺はどこも混んでいるはずです。そこで、あじさいを見る当初の目的は達したので、ほかの散策をあきらめ、大船へ出てしまうことにしました。そう決めて、北鎌倉駅へ戻ってびっくり。たまたま東京方面から到着した電車が、満員なのです。発車した後には、ホームに人があふれていました。

ここで注意を一つ。東京方面からJRで来て、北鎌倉駅で降りるつもりなら、できるだけ前の方に乗ってくること。一番前にしか改札はないのです。すいている時期はともかく、こうした混雑のときには、改札を出る前に、次の電車が来てしまいます。

昼から出てきたとしたら大変だったな、と思いながら、反対側のホームで上り電車を待つ私でした。
一つ隣の大船駅は、北半分が横浜市、南半分が鎌倉市にあります。大船観音と、かつて松竹の映画撮影所があったことはご存じかもしれません。JRが3線と湘南モノレールが乗り入れていて、駅周辺は賑やかです。

この大船へ出たのは、ランチの目的もありますが、パンを買うのも目的です。大船にはいいパン屋さんがあります。一年近く前から通うお店 ”カルヴァ” です。最初にここのバゲットを食べたとき、フランスで食べた感じにとてもよく似ていて、それ以来のファンです。店内にはケーキなど洋菓子もあります。どれも、もちろんおいしそうなのですが、私が確実に手に入れたいのは、ライ麦を使ったバゲットです。これがあって、あと若干のチーズがあれば、当然、コルクを抜くしかないでしょ。今夜はワインに決まりです。
» http://www.calva.jp/

パンを抱えて腹ごしらえに向かいます。夜がワイン中心になるので、昼はつるりとおいしい稲庭うどんにしました。”鴇(とき)”です。
» http://www.inaniwaudontoki.jp/index.html

予約のないとき、たとえば、こんな風に息抜きすることがあります。たいていの場合、私は部屋に閉じこもりになりがちです。仕事が忙しければ忙しいほど、外へでません。何か、些細な理由でもつけて、外出するよう心がけています。こうして自分自身のコンディションを整えるのも、また仕事のうちなのだろうと思います。
今回は、予定していたコラムがなかなか書き上がらないので、息抜きコラムになりました。息抜きといえば…。私のところでは、知り合いの方にお願いして、毎週火曜に新しい花が飾られます。クライアントさんの中には、これを楽しみにしている方が多いです。今回の終わりに、私の独断で選んだ花傑作選を掲載します。順番は、時期をさかのぼって行きます。最後の一枚には、わがスタッフも出演しています。 息抜きにどうぞ。


コラム 2009年11月26日 腰痛の発症と消失〜フランスから

今回は、フランス旅行モンサンミッシェル編で取り上げた、私の腰痛を取り上げます。

その前に…、
書き進めて行くにあたり、なるたけ宗教色を出さないよう努めるつもりですが、心の内を表現するため、そうした色合いを感じさせてしまう部分があるかもしれません。気になさる方は、その部分を適当に読み替えていただけたらと思います。

それでは…、

フランス旅行モンサンミッシェル

まず、私が腰痛を発症したのは、フランス到着の翌朝でした。
いやだなあ、と思ったのを覚えています。これから観光が始まるというのに、どうしようと思わないわけがありません。すぐさま、適当な整体術を自らに施しながら、なぜなのか考えました。飛行機の中では、こまめに身体を動かしていました。それこそトイレ前のスペースで、たまたま居合わせた客室乗務員の方や乗客の方たちを巻き込みながら、体操したりして…。まあ、意外に快適な空の旅でした。
そういうことですから、長時間の飛行機が、主たる理由とは考えられません。
では、ホテルのベッドでしょうか。いやいや、それも考えられません。どこでも眠れるというのが、特技です。実に快眠でした。

そうこうするうち、痛みは軽くなりました。一応、観光には差し支えなさそうです。でも、まだすっきりとは行きません。
こういうとき、というか、全ての症状には何らかの心理的らしき要因があるとみるのが、内田流です(なぜ、そう考えるようになったか、などは別の機会に)。そこで、観光しながら、自分の心を眺めることにしました。ではなくて、眺めざるを得ないことになりました。忘れようとしても、事あるごとに腰がこっちを向けと言わんばかりに症状を出すのですから。
眺めていて気付いたのは、長期休暇の後ろめたさ、旅費に散財しすぎた、そうした思いを私が抱えていることでした。なんとなくイメージできませんか? 目の前のことを楽しもうとしているときに、そうはさせまいと邪魔するように腰に張り付いている思い。絵にすれば、ギャグ漫画です。笑っちゃうような状況です。

当院では毎週違った花を飾っています

普通なら、ここまで分かった段階で、症状は引いて行きます。ですが、このときは引きませんでした。おかしいな。いつの間にか、私は、その思いに対して、言い訳じみた説得を始めていました。そんな思いに根拠がないだの、いまさら楽しまないでどうするだの、挙句、叱り飛ばしたりして…。

こんな風に書きますと、ずっとこんなことを考えていたようにみえますが、そんなわけではありません。私の心を部分に切り分けるとして、その大部分は旅行をしっかり楽しんでいました。一部がこんなセッションをしていて、のどに引っかかった魚の骨状態の腰をどうにかしようとしていたのです。また、別の一部では、手をかけすぎている、症状を消すことばかりにとらわれているなあ、と思っていましたし、さらに別の一部は、もっと深いところをみた方がいいのにと思っていました。

もっと深いところをみた方がいい、というのは、カメラのメモリーに謎のフォルダーがあるということに気づいて、決定的となりました(カメラのメモリーが関係するなんて、そんなことありうるのか、これもまた別の機会に)。どうやら長期休暇の後ろめたさなどの思いは、ヴェールのようなものらしいのです。そのヴェールをめくった下に、私自身も気付いていない、もっと別の思いが隠れているようなのです。

その思いを捕まえることができませんでした。ちらっとも垣間見ることすらできないまま、とうとう楽しみにしていたモンサンミッシェルまで来てしまいました。腰の痛み、消しておきたかったのですが…。

当院では毎週違った花を飾っています

そうして、その朝がやってきました。
モンサンミッシェルの鐘が鳴り響き、大気が鳴動し、鳥の群れが飛ぶ。
その瞬間。
過去を悔むことも誉めそやすこともなく、未来を願望することも不安することもなく、私は、今にいました。
どこかに、探すことも求めることもなく、私はここにいました。
今、ここ。
感覚は研ぎ澄まされ、身体は広がって大気とともに振動し、心は喜びに満たされながら、私は、今ここに、いました。
良い悪いの判断もなく、好き嫌いの区別もなく、なぜなら全てがつながっているのですから。そう気付いている私が、今ここにいました。
どのくらいそうしていたでしょうか。
「…すごいね」そう呟いて、傍らをみると、妻が微笑んでいました。
そして、気付けば、腰の痛みは消失していました。

以上が、腰痛の発症と消失、それに伴う私の心の動きです。よくもまあ、ごちゃごちゃ考えているものだと思います。まるで、腰痛を巡って、考えと考えとが戦っているようです。
この戦いを整理すると、大きく4つにわかれています。

  1. 身体を身体としてみている。(飛行機のせい? ベッドのせい?)
  2. どんな考えを抱えているか眺めている。(後ろめたさ。マイナス感情。ヴェール。)
  3. ある程度明らかになった考えを掘り下げようとしている。(ヴェールの下は何?) 
  4. 考えが沈黙し、感覚は研ぎ澄まされ、戦いはない。(モンサンミッシェル)

当院では毎週違った花を飾っています1〜3は原因を追究しようとしていますが、4はまるで異なっています。たとえるなら、前者は古典力学、後者は量子力学と言えるかもしれません。
もう少し分かりやすい例でいえば…、
あなたが乗り物に乗っているとします。なんだかひどく揺れるので、乗り物が故障したのかと修理しようとします(1)。あまりの揺れのひどさに、ふと、窓の外をみます。大海原のただ中で、乗っている船の下が波だっているのに気付きます(2)。船から身を乗り出して、あるいは命綱をつけて波に身を浸し、波の下に何があるのかみようとします(3)。命綱を放すのは勇気がいりますが、ダイビングです。余分な力を抜いていると、最初は波に翻弄されるかもしれません。しかし、やがて、波を感じることのない海の中です。あなたは安らぎを感じます。なぜなら、あなたが気にしていたのは波という現象でしかないことに気付いたからです。あなたは、いま海と一体になっています(4)。

1から4で、最も気になるのは私の腰痛が消えてしまった4の状態です。この4の状態、「今ここ」状態と言いますか、このような精神状態は何なのでしょうか。どうも言葉でうまく表現するのはあきらめた方がいいように思います。私に分かっているのは、この状態は誰でもが経験し得ることであり、また、この状態にあるとき、症状が保持されないということです。症状は、むしろこの状態への道標のようにみえます。さっきの例で言えば、揺れて、自分が船に乗っていることに気づかなければ、海に飛び込みません。少し短絡的かもしれませんが、症状を眺めていると、この状態に行きつき、行きつくと症状は役割を終えたのかしずまってしまう。このことに医学的エビデンスがあるかどうかを問われると(医学が扱うのは、1だと思うのですが)、答えに窮しますし、また私は言及すべき立場にありません。

では、どのようにして、この状態に入っていけるかです。たいていの場合、何らかのきっかけ(私のこの度はモンサンミッシェルをきっかけにしました)から、こうした経験をなさるはずです。大自然に心打たれたときや、大きな感動をもたらすような出来事に出あったときなどは、とりわけ多いかもしれません。また、日常の何気ない行動のときにもあるはずです。たとえばフェルメールが描いた絵のような、そうしたときなど。どうでしょう? 思い当たることはないでしょうか?

たとえ、きっかけがなくとも、これは可能なはずです。私はなるべく意識しているようにしていますが、まだまだ、その状態に入れることは少ないですし、もっと深く入るとなるとなかなかです。せいぜい海面下数メートルをバシャバシャやっているだけです。

当院では毎週違った花を飾っています

そんな未熟な私がクライアントさんに対して、4の、その状態でみれば悩みはどうにかなるのに、と思ってしまうのは、どこかおこがましいのではないか。私は知らず知らずのうちに、私ごときが、という後ろめたさを抱えていました。この未熟な私、この後ろめたさ、実はこれこそが、ヴェールの下に隠れていた思い(3)だったのです。腰痛が消えたあとで気付きました。それまで、はっきりと意識したことのない思いです。仕事中に気付いたらスランプになっていたかもしれません。旅に出て、腰が痛くなって、ついにクローズアップすることのできた思いです。その思いに気付くと同時に、おそらくもっとずっと深い海底のようなところから湧きあがって来るような思いにも気付きました。

それでもいい、と。

この思いはモンサンミッシェルでの4に似た肌触りをしています。それを何とか言葉にすれば、私は私の歩幅で歩くしかない。むしろ、そうした歩みの途上にある方が、クライアントさんの気付きにいくらか役立つのかもしれないだろう。と、言うわけで、今回のコラムは、なんだか恥ずかしいのですが、きわめて素直に書いてみようと試みました。
いかがでしたでしょうか? はしょったり、逆にくどかったり、あるいは読みにくいところが多々あったと思います。この長い文章に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


コラム 2009年10月23日 フランス紀行(終編)

モンサンミッシェルを出て、モネゆかりの地・ジヴェルニー、ゴッホゆかりの地・オーベルシュルオワーズを経て、パリに入った。早速スーパーに飛び込み、メモリーカードを見つけた。これで、腰に続いて、デジカメも復活。カメラはなければないでいいのだけれど、心のどこかに、ここに行ってきたぞという証拠を残したがっている自分がいるから、カメラが使えるようになったことはありがたかった。それからは、単純にパリを楽しむことに没頭した。
まずは夕食で、久しぶりのブルゴーニュワイン。うまいんだけど、いまひとつかな。
夜景になる時間、だいたい10時ぐらいを見計らって、セーヌ川クルーズに出かける。

橋にも河岸にも、人、人、人。花見みたい。

橋にも河岸にも、人、人、人。花見みたい。

言わずと知れたエッフェル塔。特別な照明期間だったらしい。

言わずと知れたエッフェル塔。特別な照明期間だったらしい。

船を降りるときには、乗り込むときを上回る人混みになっていた。船着き場に次々にバスが到着し、ハングルや中国語が飛び交う。フリータイムにもかかわらず付き合ってくれた添乗員さんの機転で、そんな人混みに揉まれることなくメトロの駅にたどり着く。
翌朝は、おきまりの基礎観光コースに始まる。

ノートルダム大聖堂。

ノートルダム大聖堂。

その近くの露店。

その近くの露店。

ルーブル美術館にて。これはなかなか撮れない。ピラミッドの先端にだれも手を出していない。その一瞬。

ルーブル美術館にて。これはなかなか撮れない。ピラミッドの先端にだれも手を出していない。その一瞬。

フリータイムになれば、オペラ座から凱旋門まで、ショップをのぞいたり、カフェでくつろいだりしながら歩く。

シュノンソー城

ヴァンドーム広場。

シュノンソー城 窓から川面を望む

シャンゼリゼ。

シュノンソー城

凱旋門の上から、モンマルトル方面。

シュノンソー城 窓から川面を望む

同じく、シャンゼリゼ方面。ずっと歩いてきた。

夜はディナーショーを楽しむことになった。
またしても散財。…気にしない気にしない。

ショーが跳ねて、夜更け。それでも人がいっぱい。

ショーが跳ねて、夜更け。それでも人がいっぱい。

パリ、フランス最終日。出発まで、モンマルトル界隈を散策する。いつかどこかで観た古いフランス映画の中で、若い画家たちが苦悩する舞台になった場所。私もまた、そこに立ってみたいと思った。

サクレクール寺院

サクレクール寺院。

ツール・ド・フランス?

ツール・ド・フランス?

食材の豊富さに、住むのもいいかな、と思う。

食材の豊富さに、住むのもいいかな、と思う。

こうして、私の初ヨーロッパ、初フランスの旅は終わった。完全にフランスいいな病に罹ってしまった。いつかまた行くからと、メトロの回数券を何枚も握りしめたまま帰ってきた。
掲載した写真以外に、もっといいのはある。しかし、同じツアーの面々がチラホラ写っていたりして、無断でネット媒体に載せるのはためらわれた。その個性的なメンバーとのゆるい関係が、旅を面白くしてくれたので、感謝している。
それから添乗員さんの素晴らしさ。あれほど気の利く方を私は知らない。彼女にも感謝。

以上、フランス編でした。
目を通していただいた、あなたにも感謝です。


コラム 2009年9月29日 フランス紀行(3)

ボルドーを過ぎたとき、旅程も早半分を消化してしまった。あんなに楽しみだったボルドーもあっけなく過去となった。そうして、このホームページ上に、自慢そうに写真を載せ続ける本当の理由へ到達する。

なにしろ、フランスへ着いた翌日から、腰が痛い。いろいろ試みているが、はずせないでいる。情けない。理由はなんとなく見えていた。長期休暇の後ろめたさと、旅費に散財しすぎたかなという思い。いずれも、後ろに痛みを覚えるのに適当な思考。その思考を黙らせるために、あこがれの地へせっかく来たのだから楽しまなければと、思考で応じている。ここまでわかって出ている痛みだから、動けなくなるほどのことはないのだが、どつぼにはまっている。だいたい、ちょっと考えれば、さっき挙げた理由に根拠がない。いったい何に後ろめたさを感じるというのか。散財といったって、何とか都合がついているから、ここに来ているわけだし。そう感じてしまっている底に、もっと別の思いが隠れているに違いない。そういう思考が追い打ちをかける。

それを象徴するかのように、カメラのメモリーが謎のフォルダーを生成し、その容量の多くを占領していた。どういうことかというと、新しい写真一枚を保存するには、保存済みの写真を一枚消去しなければならなくなった。笑うしかない。

そんな状態を抱えながら、ロワールの城やブルージュの大聖堂やらをめぐる。そして、やっぱり、ロワールのワインをおいしく飲むのだった。

シュノンソー城

シュノンソー城

シュノンソー城 窓から川面を望む

窓から川面を望む。

シャンボール城。城から正門を見るが、見えない。滑走路のような道。

シャンボール城。城から正門を見るが、見えない。滑走路のような道。

シャンボール城

その城の姿。うーん、コメントは控えます。

この旅を決めた動機の地、モンサンミッシェル。
感覚を研ぎ澄まし、ただ感じながら巡る。
この日の宿泊は対岸地区だったが、ホテルを出て少し歩けば、モンサンミッシェルを見渡すことができた。当然のように、夕景、夜景、早朝景を見に出る。
そして、この地の酒であるシードルは味見だけにとどめ、ロワールワインを飲む。うまい。

モンサンミッシェル

モンサンミッシェル。近くから見上げる。

島内メインストリート
島内メインストリート。

モンサンミッシェル 西のテラス

西のテラス。

モンサンミッシェル 列柱廊

列柱廊。散歩、会話、瞑想。

早朝のモンサンミッシェルを見に出たときのことだった。
突如、そのモンサンミッシェルの鐘が鳴り響いた。
大気が、グゥアングゥアンと鳴動する。
鳥の群れが、モンサンミッシェルのかなたから飛来し、私の頭上を越えて飛んでいく。
私は、口をあんぐりと開けたまま、たたずんでいた。

尖塔の金色に輝くミカエルと同じ像。

尖塔の金色に輝くミカエルと同じ像。

腰の痛みは消えた。
このことについては、フランスシリーズの後、あらためて書こうと思う。

モンサンミッシェル名物オムレツを我が家で再現。徹底的に泡立てる。

モンサンミッシェル名物オムレツを我が家で再現。徹底的に泡立てる。

ブイヤベースと、ジャガイモとゴルゴンゾーラのグラタン

それにブイヤベースと、ジャガイモとゴルゴンゾーラのグラタンもつくってくれた妻に感謝。


コラム 2009年9月17日 フランス紀行(2)

旅行開始4日目の午後、カルカソンヌに入る。この街は、シテと呼ばれる城壁で囲まれた小高い地区と、城壁外の地区で構成されている。その城壁がいまだにちゃんとした形で残されているので、世界遺産である。シテの奥まったところにあるホテルまで歩く。城門から続く狭い坂道は、土産物屋をのぞく人びとでごった返していた。スペイン国境が近いせいなのか、スペイン語らしい言葉も飛び交っている。

そして、ここはラングドック=ルーション。もとは安ワインの産地だったが、近年は評価も高く、おいしくて値段も手ごろなワインが続出している。結構ねらい目で、私も購入することが多い。当然、この日も夕食とともに、この地のワインをいただく。うまい。

カルカソンヌ

城壁の上をぐるっと歩いてみた。右方は城外。

カルカソンヌ

城壁を出て、夜景がきれいに見える地点に立ったが、カメラのバッテリーが切れた。携帯で撮影。全体を写したのはこの一枚のみ。

次の日、サンテミリオンへ向かう。近づくにしたがい、ぶどう畑が多くなると同時に、ぶどうの樹の勢いが増すように感じる。ホテルに着けば、そこはぶどう畑の中。私は、その様子を眺めているだけで、興奮していた。当然のように、サンテミリオンのワインを1本あける。好みを言えば、ボルドーなら、ポイヤックやマルゴーのある左岸なのだけれど…、そんな些細なことなど消えてしまうほど、うまい。

ランドック=ルーション 早朝のぶどう畑

早朝のぶどう畑。朝露に濡れている。

ランドック=ルーション ぶどう畑

もう少し明るくなると、こんな感じ。

メルロー

この地区の主要品種メルロー。こっそり食べたら、とても甘かった。

サンテミリオン旧市街

サンテミリオン旧市街。

サンテミリオン旧市街神の雫21巻にも似たような風景が描かれている。

神の雫21巻にも似たような風景が描かれている。

サンテミリオンのワインショップ

こんなワインショップがたくさんあって、見て回りたかったのだが…。ツアーの弱み。

ガロンヌ川とボルドーの街並み

ガロンヌ川とボルドーの街並み。塔のように見えるのは、サンタンドレ大聖堂。

ボルドー駅

ボルドー駅。ここからTGVでトゥールへ。


コラム 2009年9月3日 フランス紀行(1)

秋の気配が漂い始めたこのごろですが、私の気分は、まだ夏を引きずっています。初めて2週間もの休みを取り、初めてヨーロッパへ足を踏み込んだからです。フランス1国をじっくり周遊してきました。いい旅だったと思いますが、その浮かれた気分はクールダウンの必要があります。これから数回にわたって、その様子を掲載させていただくことで、日常へ戻ることにします。そんなわけですので、きわめて私的なコラムになるはずです。それにお付き合いくだる方には、あらかじめ感謝申し上げます。

旅はニースから始まった。

ニース

コートダジュール、名前の通りの青。

ニース

朝は人通りも少なめ。

しまった、と、思った。日本の方がましではないか。日差しは強いし、蒸し暑い。
ガイドが言うには、ここは避暑地ではありません。迎暑地です。この国の人たちは、この暑さを求め、寝汗をかく経験のために来るのです、と。
なんだ、そうと知って眺めれば…、きりりと冷やしたプロヴァンスワインがうまい。

エズ

エズ村に立ち寄る。岩塊にへばりつくような家波。

エズ

その路地はいい味がある。

モナコ

ついでにモナコの衛兵。

エクス・アン・プロヴァンス観光後、ついにアヴィニョンに至る。

アヴィニョン

アヴィニョンのメインストリート。メリーゴーランドは他の街でもよく見かける。

アヴィニョン

右が法王庁。左はノートルダム・デ・ドン教会。

アヴィニョン

ローヌ河とサン・ベネゼ橋。この上流にシャトーヌフ・デュ・パプ、エルミタージュといったワインの名醸地がある。そして、そのはるか北に私の最も好きなピノ・ノアールの産地ブルゴーニュ。

14世紀にローマ教皇の宮殿が置かれたところ。遺跡に抱かれたようなホテルに泊まる。部屋の窓からライトアップされた夜景が見える。だいたい写真を撮る習慣がないから、忘れる。周りの人たちがカメラを構えるので、そうかと思い出して、少し撮る。セザンヌやゴッホは割愛して、やっぱり今宵のローヌワインはうまい。

ボンデュガール

ポンデュガール。ローマ時代の水道橋、…大きい。

アルルの広場

アルル。市庁舎、教会、広場はセットです。


コラム 2009年6月26日

(院長) 内田 勝己
(院長) 内田 勝己

チョコレートを小さく一口かじる。
甘さと香りが広がるのをじっくり感じる。
飲み込ない。
口の中のあらゆる部分で味わう。
やがて、唾液でいっぱいになる。
それでもがまんして、チョコレートを味わおうとする。
おいしい。
が、何かが欠けている気がする。
ついにあふれそうになって、飲み込む。
その瞬間、満足が駆け巡る。
そして、もう一口、今度は大きくがぶりとかじる。

私の幼いころの記憶です。
母に手をひかれて行ったお店の棚に大きなチョコレートがありました。私はその一番大きいのを買って欲しかったのですが、母がかごに入れたのは、一番小さいやつでした。ほんとに小さくて、すぐになくなってしまうと思った私は、ちびちびとかじって長く持たせようとしたのです。でも、だめでした。そんなことをしていたのでは、おいしいけど、おいしくない。飲み込まないと、そしてその瞬間にこそ、最もおいしさを感じるということに気付いたのでした。おいしさを感じることを保持し続けられないのだ。その衝撃は、その時の情景をリアルに私の記憶に刻み込みました。

当たり前といえば、当たり前のことです。しかし、一般化して考えてみると、楽しさといったポジティブとされるものも、苦しさといったネガティブとされるものも、すべては流れの中にあって、瞬間瞬間に姿を変えて行く。たとえ永遠に思える状況も、やがては姿を変えて行く。なんていう風にとらえることができます。

みなさんも、幼いときの記憶を掘り起こしてみてください。じっくり眺めてみれば、深遠な気付きをすでに持っているはずです。
だれでもです。

今回、ご紹介するお店は、沖縄・東南アジアのスパイシーな料理と泡盛、それに音楽がコラボする‘くんくんしーらや’。上大岡時代はご近所さんでした。時折、ここのカレーを無性に食べたくなるのです。

くんくんしーらや
http://kunkunsi.com/

毎週毎週、色とりどりの花が、いらっしゃる方をお迎えします。

毎週毎週、色とりどりの花が、いらっしゃる方をお迎えします。 毎週毎週、色とりどりの花が、いらっしゃる方をお迎えします。 毎週毎週、色とりどりの花が、いらっしゃる方をお迎えします。

コラム 2009年6月2日

6月2日は、横浜港開港記念日。

しかも今年は150周年ということで、お祭り騒ぎの真っ最中。
生まれて以来、横浜市民の私です。そんな雰囲気を垣間見ようと、時間をつくって歩いてみました。

ブルーインパルス

空を舞うブルーインパルス。

飛行船

飛行船は‘Fly With Me’と
呼びかけています。

海王丸

帆を広げている海王丸。

毎週毎週、色とりどりの花が、いらっしゃる方をお迎えします。

毎週毎週、色とりどりの花が、いらっしゃる方をお迎えします。 毎週毎週、色とりどりの花が、いらっしゃる方をお迎えします。
毎週毎週、色とりどりの花が、いらっしゃる方をお迎えします。 毎週毎週、色とりどりの花が、いらっしゃる方をお迎えします。

コラム 2009年4月30日

たまには、こんな感じもいかがでしょう。
“うまいものシリーズ”です。

心をくすぐり、ぬくもりをもたらす。
時にしかめっ面や泣き顔を笑顔に変える。
いわば、どんなセラピーにも勝ると言える、そのひととき。
症状や悩みを忘れて、没頭しましょう。

おいしい!
うまい!

この一言の前に、敵も味方もありません。
当院ではしばしば食の話が飛び出します。食養生ではなくて、クライアントさんとのうまい店情報の交換です。そんな中から、私がチョイスしたお店を紹介します。ただ、少々ローカルな話題になってしまうのは、ご容赦ください。

第1回は、いろいろ考えましたが…。
横浜は関内にある焼肉屋さん。「かりん」です。

かつて、私は、二年間にわたって玄米菜食を実行していました。からだによさそうだからということで、気軽に始めたのです。当初はなんだか体調がよい気がしました。ところが、肉類を使用していない食品はとても少ないのです。大変なのは外食するときで、メニューの中から、肉のないものを探すのは至難のわざです。サラダですら、ベーコンなどが使われていたりしますから。そんなこんなで、次第に食べることに楽しみを失っていく自分に気づきました。

そこで思ったことは、何を食べるかより、どう食べるかが大事だということ。何を食べたとしても、からだじゅうの細胞がウヒャウヒャ喜ぶように食べることです。からだに悪そうとか、これ食べたら太りそうなどと思いながら食べるなど、もってのほか。おいしくいただくことこそ、健康の秘訣です。

と、言うことで、私は肉も好きです。そんな私が「かりん」の肉を食べたとき、ああ、玄米菜食にこだわってなくてよかった!と、心の底から思いました。海鮮もいけますが、肉の美しさとおいしさは格別です。また店のつくり、店主夫妻の人柄も、すてきな店です。
お店の詳しい情報は以下のサイト(ぐるなびとキリンビール)をご覧ください。

http://r.gnavi.co.jp/p706400/?ak=ZEFGcGtwQr0%2BfW3Rk2tUFGDjOewRqfLrbKXcvs7uweg%3D

http://www.kirin.co.jp/brands/braumeister/meister/yokohama/memo/index4.html

先週の花
先週の花

今週の花
今週の花

横浜産たけのこ(父が掘って持ってきた)
横浜産たけのこ(父が掘って持ってきた)

それを丸焼きにしてみました
それを丸焼きにしてみました


コラム 2009年4月16日

今回は少し語り口を変えて、あなたに向けて、私が最も伝えたいことを書きます。
あなたというのは、たった今、この文章を目にしたあなたのことです。
あなたは、少なからず何かに悩んでいる。でなければ、このページにたどり着かないでしょうから。

症状、痛みだったり、病気だったりに悩んでいるあなた。
家族関係、愛する人との関係、職場の人間関係、あるいは友人関係に悩んでいるあなた。
仕事のことで悩んでいるあなた。
お金のこと、預金残高や財布の中身について悩んでいるあなた。
そんな悩みを抱えている人といっしょに過ごすことの多さに悩んでいるあなた。
私のところへ予約を入れようかどうしようか迷っているあなた。
また、かつて来たことのあるあなたにも、将来くるかもしれないあなたにも、いつか会った方にも、いつか会える方にも、そして会うことのない方にも。

整体院というよりは、何でも相談所みたいな私のところで、さまざまな状況の方に出会って、私なりに確信したことの一つを書いてみます。

人生の悩みのただ中にいるあなたは、真っ暗闇にいるのかもしれない。
右を向いても、左を向いても、どっちをみても果てしない闇の中にいる。
そんなとき考えるのは、このままだったらどうしよう、もっと悪くなったらどうしよう、という将来への不安。こんなことになったのは、あの時、もっとああしておけば、こうしておけば、あの選択を間違えてしまったからだ、という後悔。

それらは、あるかもしれない未来の想像や、あったかもしれない過去の記憶に過ぎない。
いや、現在進行形で悩んでいる、と、あなたは言うかもしれない。でも、たった今のあなたは、悩みからほんの少し目を転じ、この文章を読んでいる。手元のそのマウスでこの画面上の好きなところをクリックできるし、検索ボックスには好きな言葉を入力できるし、電源を切って何か別のことをすることができる。それより何より、何を考え、何を感じるのかを好きなように選択できる。想像や記憶に捕らわれることなく、そういう自由を行使できる。そのことを、たった今、まず確認していただきたい。

それはそうだろう。わかるよ、でも、と、あなたは言う。でも、悩みは現実で、いまこそ苦しんでいるのだ、と。
私は、あなたにうかがいたい。

あなたの精神は何を考え続け、感情は何を感じ続けていますか?
病気のことを考え続け、不快な感情を味わっているのではないか。
気になる他者のことを考え続け、不快な感情を味わっているのではないか。
一生懸命行動するのに成果ないと考え続け、不快な感情を味わっているのではないか。
お金の不足を考え続け、不快な感情を味わっているのではないか。
苦しみ。悩み。あなたは、それを考え続け、不快な気分でいる。

あなたは、まるで不快になるために生きているかのようだ。同じような状況にありながら、にこにこ笑っている人もいる。そんな人を見たことないだろうか。だとすると、問題なのは、状況もさることながら、考えと気分ではないのか。

なぜ、あなたは、正常に働いてくれている寡黙な細胞諸器官より、不調な部分により多く寄り添っているのか。
なぜ、自分自身や愛する大事な人よりも、嫌な他者を気にかけているのか。
なぜ、自分の存在証明を他者にゆだねているのか。
なぜ、いま手の中にあるものを卑下して、手の中にないものに飢えているのか。

あなたがより多く心を寄せている方向へ、状況は動いている。

それは、たとえば、こんな感じ。
ディスプレイには暗い光景が映っている。あなたは、じっと眺めて、ため息をつく。そして、魅せられたように、より暗い部分をクリックする。そこに開くのは、さらに暗い光景。あなたは首をふる。こんなはずじゃなかった。だが、またしても魅せられて、その中でもいっそう暗い部分を見つけ出し、クリックする。もっと暗い光景が広がる。あなたは、その中でも…。

これが、あなたがやっていることだ。いつまでそれをやり続けるのだろう。

精神は何かを考え続け、感情は何かを感じ続ける。それは止められない。止められないが、何を考え、何を感じるのかは、選ぶことができる。ならば、その考えに少しでもよい解釈を付け加え、少しでもいい方を向いた考えを抱き、快い感情を求めればいい。より暗い部分ではなく、あなたがクリックすべきなのは、ほのかに明るく見えるその箇所だ。そうすれば、クリックするごとに明るい画面に切り替わる。いっぺんに煌々とした明るさになる必要はない。ほんの少しの明るさへ、気分のいい方へ考えを振り向けるだけだ。

だからといって、暗い部分へ目をやるな、と、言うのではない。見るなと言われて、見たくなるのが人。暗い部分も見た上で、でも、選択するのは明るい部分にするよう心がける。

今まで、暗い部分を見つけて、クリックするのを得意としたあなたなら、そうではない明るい部分を見つけるのはたやすい。
苦悩した人は、人生に喜びを見出すのはたやすい。やがて、ささやかな喜びが、増殖し始めるのに気づくはずだ。きっと状況は変わる。あなたは、強さを取り戻す。そして、あなたは、あなたの存在、そのものを楽しむことを思い出す。

わかりにくい文章だなあと思う方が多いかもしれません。おいおい詳しく書く機会を持ちたいと思っています。
ところで、ここに書いたのは、あくまでも一つの意見です。また、このような考え方はけっして新奇なものでもありません。いろいろなところで、いろいろな人が、いろいろな形で伝えようとしていることです。悩む時というのは、外から来た状況に巻き込まれてしまったと思い込み、主導権を失ってしまうものです。その結果、無力感とより一層の悪化をもたらします。悩んでいる人自身が、主導権をとり返し、状況を変えていくためには、こうした視点が相当有効です。

そんなことあるか、と、反対していただいてもかまいません。まあ、保留ぐらいにしといて欲しいですが…。もちろん、うなずいていただけたら、それはとてもうれしいことです。特にガンを始めとする、治りにくいとされる病気の方や、困難さのいわば”どつぼ”にハマった感じの方には、ぜひともわかっていただきたいなあと思っています。

いずれ、花は散る。
それを知るが、嘆かず。
ただ、いま咲き誇る花を楽しむ。
やがて、その時、散る花を楽しむ。

今週の玄関の花
今週の玄関の花


コラム 2009年4月9日


ランドマークタワーが
見えるはずなんですが…。

少し時間があったので、すぐ近くの大岡川まで散歩に出かけました。桜は満開で、たくさんの人出でした。

両岸から川面におおいかぶさるように咲くので、橋からの眺めが、私は気に入っています。

Y高のボート部の練習も優雅にみえます。
花を愛でるなら左岸を歩き、花より団子なら右岸を歩きましょう。この写真ではわかりませんが、屋台がずらっと並んでいます。

今週の玄関の花は、桜と野草です。


コラム 2009年1月8日

2009年になりました。皆さんは、どのように年を越されたでしょう。
日付が変わるのは毎日のことなのに、一月一日というこの日に関しては、なんだか改まった気分になるのは面白いですね。そんな気分をもっと味わおうと、私は鎌倉の鶴岡八幡宮へ初詣に出かけました。行こうと決めて家を出たのが昼を少し過ぎていましたから、境内へ入るとすぐ行列です。はるか先の方で上げ下げされるロープが、行列を少し進ませては、しばらく止めるのを繰り返します。私は、行列の中ほどにくっついて、その流れに乗りました。見えるのは、人の頭と背中ばかり。普通なら思わず顔をしかめたくなるような混雑ぶりです。ですが、今日ばかりはそれと知っていてやってきた。ならばと、背中を照らすお日さまにポカポカ、ぬくぬくたたずんだのでした。ふと見上げれば、抜けるような青い空。鳥がスーッと滑るように飛んでいます。境内の木々の緑も鮮やかです。いつもはせかせか拝殿へ一直線で、眺めることもなかった景色です。行列に並んでみるのも悪くないと思えます。

そういえば…、「お面買ってェ!」と駄々こねる子ども、「頼朝ってなんだっけ?」「入場料とかいるのかな?」みたいな会話をしている紋付袴の若いの、しっかりつないだこの手だけは離すまいとじっと寄り添う着物姿の老夫婦。そんな人、こんな人が面白くてかわいくてたまらない気持になっている私に気づきます。一番面白かったのは、結婚間近らしいカップルで、ずっと喧嘩しています。結婚となりますと、親やら親戚やらを無視するわけにはいかないですが、それがいつの間にか二人の間の火種になったりして。でも、いいねえ。なぜって、あなたたち、それでも拝殿へ向かって進んで行くんだもの。大丈夫大丈夫、きっといい夫婦になってください。

いろいろな人がいて、いろいろな事が起こるこの世界、改まった気持ちで眺めてみたら、めでたく見える。だから新年は「おめでとう」なのでしょう。
日が陰る頃、私はようやく参拝をすませ、破魔矢をいただいて帰ってきました。

二代目を襲名しました‘かのん’

あらためまして…
新年あけましておめでとうございます。

めでたさついでに、二代目を襲名しました‘かのん’の写真をのせます。もうすぐ一才になると思われます。思われると言いますのは、犬猫里親募集サイトで出会い、去年の8月にやってきたやつだからです。誕生日は推定するしかなく、一月下旬から三月上旬です。人懐こくて、ちょっと臆病、やっと慣れてきたところで、そろそろ皆さんの前にも登場するかもしれません。そのときは、先代同様かわいがってやってください。
先代かのんはと言いますと、暑かった去年の7月の終わり、逝きました。半年近くたった今でも、思い出すと切なくなります。ご報告まで。

犬猫里親募集サイト
http://www.satoya-boshu.net/

 


コラム 2008年6月19日

今回は、内田整体院ではどんなことをしているのか、です。

「どんなやり方なんですか?」などのご質問はとても多くいただきます。
せっかくそう訊いてくださったのに、なんだかうまく答えられないことが多いのです。大変申し訳ないことですが、一言二言で、こうやりますと言い切れるものなのだろうかと悩みます。電話の向こうで質問なさっている方の状況はいろいろです。たいてい身体的症状をお持ちになり、それ以外にもさまざまな悩みを抱えていらっしゃる。病院に通うのはもちろん、その他にもいいと言われるところには行きつくしている。そういう方に対して、私にできることはなんだろう。
「どんなやり方なんですか?」最初の出会いの質問で、私はいつも原点に帰るのです。

とはいえ、ある種の手順はありますから、それをご説明しましょう。

まず、お話をうかがいます。
次に、話し合いです。
ここまでで、終わる方もいます。次の整体術を施すよりも、しっかりお話した方がいいと思われる場合です。
整体術を施す場合ももちろんあります。整体術で主に使うのは、気功法のような、野口整体で言う愉気のような、手当と言ってもいいような、私流の方法です。他でも似たような方法を行っている方もあろうかと思いますが、一応、私、内田流と言っておきます。骨をポキッとやるやり方や、マッサージのようなやり方ではありません。
で、整体術が終わりますと、またお話です。ここでのお話は、始めのお話と整体術の際に身体から読み解いた情報を交え、この後、どうして行くかの対話が中心になることが多いです。
以上が、通常の一回の流れで、このまとまりをセッションと呼んでいます。これを必要に応じて回数を重ねて行きます。セッションとセッションとの間隔は、はじめのうちは短く、様子を見ながら徐々に長くすることが一般的です。そして、最終的には来たいときに来てください、となります。

だいたいこんな感じなのですが、整体術よりも話すことを大事にしているなんて、ずいぶん面倒くさいことをするんだなと思われた方が多いかもしれません。
そうですね、こんな段取りでは人数をこなせません。ご紹介でいらっしゃる方や、家族みんなが通ってくださる方などとても多いのですが、それぞれの話の内容はたとえその方の家族であっても漏らさないよう注意します。また、待合室がありませんから、クライアントさん同士が重ならないよう時間間隔を充分あけます。こうして、なるべくプライバシー保護に努めています。ですから、面倒くさいと言えば、めんどくさいかもしれません。それでも、こんな風にしている理由は、見方を変えてみることに挑戦しているからです。

見方を変えてみる。

たとえば、痛み。いやなものです。不快です。どうにかしたい。もしこのまま治らなかったら、いや、今よりもっとひどくなったら。そう考えたら、いやでいやで、怖くてしかたない。

そこでたいていお医者さんにかかる。医師の見方を取り入れるわけです。この段階で治れば、言うことなしです。でも、残念ながら思ったような成果が得られないこともあります。そこで、別のところへ行ってみる。つまり、別の見方をしてもらいに行くわけです。そこで成果が得られるかどうか…。

ここで着目していただきたいのは、成果が得られるかどうかではなくて、痛みを悪いものであって退治しなければいけないという見方で、すべてが動いているということです。痛みの出ている膝だの、腰だの、肩だの、頭だのを切り捨ててしまいたいとおっしゃる方さえいらっしゃいます。
でも、ちょっと待ってください。いやでもなんでも、その痛みは他の誰かが作り出したのではなくて、痛みで悩んでいる方自身が作り出しているということです。

そんな馬鹿な、なにを好きこのんでわざわざ痛い思いなどするものか。
わかります。わかります。わかりますが、いやだと思い続けても痛いのなら、少しの間だけ見方を変えてみませんか? 泣いている赤ん坊をうるさいなあと思い続けるより、赤ん坊は何を望んでいるのだろうと眺めるように。いやな痛みだけれど、何か言いたいことでもあるのだろうか。ちょっと優しい気分でそんな風に見てみませんか? お医者さんにかかりながらだって、そんな風に見ようとすることはできますよ。

そういえば、上司がかわってから仕事がやりにくいんだよな。
 そのころからかな、腰が重たくなったのは。
そういえば、最近夫婦仲が悪いの。
 そのころからかしら、首が凝っちゃって。
そういえば、また、母と喧嘩したっけ。
 そのころから肩が痛むような気がする。

そういえば、…。
たくさんのそういえば。まるで、机の引出しに丸めて詰め込んだゴミのように、心の隅に丸めこんだ思い。見て見ぬふりはケッコウ努力のいるものです。見ないんだったら捨てればいいのに、捨て切れないのは、怖いからでしょうか。それとも宝物をいっしょに丸めこんでしまった可能性があるからでしょうか。どちらにしても、ちゃんと分別して、宝物をみつけて利用して、残りかすは清掃局に持っていってもらえばいいんです。そうすれば、心が楽になります。心が楽になれば、身体が楽になります。
そういうけれど、思い当たるものはないんだけど。
もっと深いところからの呼びかけかもしれません。魂とか宇宙とか…。

一人の人を見るとき、いろんな見方、見え方があっていい。そして、これが内田の見方です。目指すのは、楽な身体と、愛にあふれる自由な心。

最後にお断りを一つ。心に目を向けてお話すると、言葉の使い方などから勘違いなさる方がまれにいらっしゃいます。内田整体院は、どの宗教団体とも関係はございません。念のため!


コラム 2008年4月18日

私は猫がきらいです。
でも、うちには猫がいます。
あれは、二年前の春、まだ上大岡の丘の上に借家住まいしていたときでした。
家へ帰りつこうという私の足元に、「ニャー」と、どこからともなくやってきた子猫がまとわりついてきました。追い払っても、追い払っても、からみつくように離れません。そして、あつかましくも玄関にまで入ろうとするのです。私は怒って猫を押しのけ、ドアを閉めました。それでも猫はあきらめません。その後数時間にわたって、ドアの向こうで鳴き続けました。

翌朝、玄関を出ると、昨日の猫が駆け寄ってきます。
夕暮れ、帰ってくると、その猫がまとわりついて玄関に入ろうとします。
朝、駆け寄ってくる。
夕、当然のように玄関に。

妻は、猫がごはんをどうしているのかな、などと心配しているようでしたが、私はそんなこと知ったことでなく、近所迷惑に思われていやしないか、早くどこかへ行ってくれればいいのにと思うばかりでした。
そんなことが続いて、一週間もしたころ、私はある症状にみまわれました。ちょっときたない話で申し訳ないのですが、出るものが出ない、出ないんだけど出る。便秘のような、下痢のような…。トイレから出ては、また入るの繰り返し。シャワートイレを使っていても、肛門がだんだんひりひりしてきます。

私はトイレに座ったまま、この症状の象意─象徴する意味─をつかまえることにしました。その気になって意識を向ければ、とても簡単でした。便と私の肛門、私とトイレのドア、猫と玄関のドア。それぞれの関係は、相似です。外と内、境界でさまよう様は三つとも同じです。このことに気付いたとき、私はあきらめました。猫嫌いのラベルを掲げ続けるには、ほころびが大きくなりすぎです。素直になるしかありません。私はトイレから出ると、妻に告げました。

「あの猫を飼おう」

その瞬間、満面の笑みを浮かべた妻。
私は悟りました。妻は、私がそう言い出すのを今か今かと待っていたのです。妻にはお見通しでした。いつしか、私の目があの猫の姿をさがすようになっていたのを。私は悔しくて、強い口調で言いました。

「動物病院で健康診断してからだ」

私の症状はすぐに治まりました。
猫は、ほぼ異常なしだったのですが、ショックというか、なんというか、彼女は子猫ではなくて、高齢猫だったのです。それゆえ、腎臓と肝臓の数値が今一つ。フクザツな気持ちでした。でも、彼女は元気です。それに行儀がいい。トイレはすぐに覚えましたし、爪をとぐのは爪とぎおもちゃのところだけですし、テーブルの上には飛び乗りませんし…。たいていの場合、犬のように私のそばにいます。
それからほどなくして、探し続けていた不動産情報が舞い込んでくるのですが、この猫のおかげかどうか…。それは別の機会に。

内田整体院院長 内田勝己です。
東京は人形町、目黒、横浜は金沢文庫、上大岡、ずっとさすらうように移ってきましたが、一年半前から井土ヶ谷の地に移り、少し腰を落ち着けるつもりでいます。そんなわけで、金沢文庫時代から7年近く続く、このホームページもほったらかしはやめて、時折、こんな文章を載せていきます。不定期更新になってしまうと思いますが、どうぞよろしくお願いします。感想、それから質問もお待ちしています。

 

整体と気功 内田整体院

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