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コラム 2009年10月23日 フランス紀行(終編)
モンサンミッシェルを出て、モネゆかりの地・ジヴェルニー、ゴッホゆかりの地・オーベルシュルオワーズを経て、パリに入った。早速スーパーに飛び込み、メモリーカードを見つけた。これで、腰に続いて、デジカメも復活。カメラはなければないでいいのだけれど、心のどこかに、ここに行ってきたぞという証拠を残したがっている自分がいるから、カメラが使えるようになったことはありがたかった。それからは、単純にパリを楽しむことに没頭した。
まずは夕食で、久しぶりのブルゴーニュワイン。うまいんだけど、いまひとつかな。
夜景になる時間、だいたい10時ぐらいを見計らって、セーヌ川クルーズに出かける。
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橋にも河岸にも、人、人、人。花見みたい。 |
言わずと知れたエッフェル塔。特別な照明期間だったらしい。 |
船を降りるときには、乗り込むときを上回る人混みになっていた。船着き場に次々にバスが到着し、ハングルや中国語が飛び交う。フリータイムにもかかわらず付き合ってくれた添乗員さんの機転で、そんな人混みに揉まれることなくメトロの駅にたどり着く。
翌朝は、おきまりの基礎観光コースに始まる。
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ノートルダム大聖堂。 |
その近くの露店。 |
ルーブル美術館にて。これはなかなか撮れない。ピラミッドの先端にだれも手を出していない。その一瞬。 |
フリータイムになれば、オペラ座から凱旋門まで、ショップをのぞいたり、カフェでくつろいだりしながら歩く。
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ヴァンドーム広場。 |
シャンゼリゼ。 |
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凱旋門の上から、モンマルトル方面。 |
同じく、シャンゼリゼ方面。ずっと歩いてきた。 |
夜はディナーショーを楽しむことになった。
またしても散財。…気にしない気にしない。
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ショーが跳ねて、夜更け。それでも人がいっぱい。 |
パリ、フランス最終日。出発まで、モンマルトル界隈を散策する。いつかどこかで観た古いフランス映画の中で、若い画家たちが苦悩する舞台になった場所。私もまた、そこに立ってみたいと思った。
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サクレクール寺院。 |
ツール・ド・フランス? |
食材の豊富さに、住むのもいいかな、と思う。 |
こうして、私の初ヨーロッパ、初フランスの旅は終わった。完全にフランスいいな病に罹ってしまった。いつかまた行くからと、メトロの回数券を何枚も握りしめたまま帰ってきた。
掲載した写真以外に、もっといいのはある。しかし、同じツアーの面々がチラホラ写っていたりして、無断でネット媒体に載せるのはためらわれた。その個性的なメンバーとのゆるい関係が、旅を面白くしてくれたので、感謝している。
それから添乗員さんの素晴らしさ。あれほど気の利く方を私は知らない。彼女にも感謝。
以上、フランス編でした。
目を通していただいた、あなたにも感謝です。
コラム 2009年9月29日 フランス紀行(3)
ボルドーを過ぎたとき、旅程も早半分を消化してしまった。あんなに楽しみだったボルドーもあっけなく過去となった。そうして、このホームページ上に、自慢そうに写真を載せ続ける本当の理由へ到達する。
なにしろ、フランスへ着いた翌日から、腰が痛い。いろいろ試みているが、はずせないでいる。情けない。理由はなんとなく見えていた。長期休暇の後ろめたさと、旅費に散財しすぎたかなという思い。いずれも、後ろに痛みを覚えるのに適当な思考。その思考を黙らせるために、あこがれの地へせっかく来たのだから楽しまなければと、思考で応じている。ここまでわかって出ている痛みだから、動けなくなるほどのことはないのだが、どつぼにはまっている。だいたい、ちょっと考えれば、さっき挙げた理由に根拠がない。いったい何に後ろめたさを感じるというのか。散財といったって、何とか都合がついているから、ここに来ているわけだし。そう感じてしまっている底に、もっと別の思いが隠れているに違いない。そういう思考が追い打ちをかける。
それを象徴するかのように、カメラのメモリーが謎のフォルダーを生成し、その容量の多くを占領していた。どういうことかというと、新しい写真一枚を保存するには、保存済みの写真を一枚消去しなければならなくなった。笑うしかない。
そんな状態を抱えながら、ロワールの城やブルージュの大聖堂やらをめぐる。そして、やっぱり、ロワールのワインをおいしく飲むのだった。
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シュノンソー城 |
窓から川面を望む。 |
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シャンボール城。城から正門を見るが、見えない。滑走路のような道。 |
その城の姿。うーん、コメントは控えます。 |
この旅を決めた動機の地、モンサンミッシェル。
感覚を研ぎ澄まし、ただ感じながら巡る。
この日の宿泊は対岸地区だったが、ホテルを出て少し歩けば、モンサンミッシェルを見渡すことができた。当然のように、夕景、夜景、早朝景を見に出る。
そして、この地の酒であるシードルは味見だけにとどめ、ロワールワインを飲む。うまい。
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モンサンミッシェル。近くから見上げる。 |
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西のテラス。 |
列柱廊。散歩、会話、瞑想。 |
早朝のモンサンミッシェルを見に出たときのことだった。
突如、そのモンサンミッシェルの鐘が鳴り響いた。
大気が、グゥアングゥアンと鳴動する。
鳥の群れが、モンサンミッシェルのかなたから飛来し、私の頭上を越えて飛んでいく。
私は、口をあんぐりと開けたまま、たたずんでいた。
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尖塔の金色に輝くミカエルと同じ像。 |
腰の痛みは消えた。
このことについては、フランスシリーズの後、あらためて書こうと思う。
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モンサンミッシェル名物オムレツを我が家で再現。徹底的に泡立てる。 |
それにブイヤベースと、ジャガイモとゴルゴンゾーラのグラタンもつくってくれた妻に感謝。 |
コラム 2009年9月17日 フランス紀行(2)
旅行開始4日目の午後、カルカソンヌに入る。この街は、シテと呼ばれる城壁で囲まれた小高い地区と、城壁外の地区で構成されている。その城壁がいまだにちゃんとした形で残されているので、世界遺産である。シテの奥まったところにあるホテルまで歩く。城門から続く狭い坂道は、土産物屋をのぞく人びとでごった返していた。スペイン国境が近いせいなのか、スペイン語らしい言葉も飛び交っている。
そして、ここはラングドック=ルーション。もとは安ワインの産地だったが、近年は評価も高く、おいしくて値段も手ごろなワインが続出している。結構ねらい目で、私も購入することが多い。当然、この日も夕食とともに、この地のワインをいただく。うまい。
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城壁の上をぐるっと歩いてみた。右方は城外。 |
城壁を出て、夜景がきれいに見える地点に立ったが、カメラのバッテリーが切れた。携帯で撮影。全体を写したのはこの一枚のみ。 |
次の日、サンテミリオンへ向かう。近づくにしたがい、ぶどう畑が多くなると同時に、ぶどうの樹の勢いが増すように感じる。ホテルに着けば、そこはぶどう畑の中。私は、その様子を眺めているだけで、興奮していた。当然のように、サンテミリオンのワインを1本あける。好みを言えば、ボルドーなら、ポイヤックやマルゴーのある左岸なのだけれど…、そんな些細なことなど消えてしまうほど、うまい。
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早朝のぶどう畑。朝露に濡れている。 |
もう少し明るくなると、こんな感じ。 |
この地区の主要品種メルロー。こっそり食べたら、とても甘かった。 |
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サンテミリオン旧市街。 |
神の雫21巻にも似たような風景が描かれている。 |
こんなワインショップがたくさんあって、見て回りたかったのだが…。ツアーの弱み。 |
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ガロンヌ川とボルドーの街並み。塔のように見えるのは、サンタンドレ大聖堂。 |
ボルドー駅。ここからTGVでトゥールへ。 |
コラム 2009年9月3日 フランス紀行(1)
秋の気配が漂い始めたこのごろですが、私の気分は、まだ夏を引きずっています。初めて2週間もの休みを取り、初めてヨーロッパへ足を踏み込んだからです。フランス1国をじっくり周遊してきました。いい旅だったと思いますが、その浮かれた気分はクールダウンの必要があります。これから数回にわたって、その様子を掲載させていただくことで、日常へ戻ることにします。そんなわけですので、きわめて私的なコラムになるはずです。それにお付き合いくだる方には、あらかじめ感謝申し上げます。
旅はニースから始まった。
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コートダジュール、名前の通りの青。 |
朝は人通りも少なめ。 |
しまった、と、思った。日本の方がましではないか。日差しは強いし、蒸し暑い。
ガイドが言うには、ここは避暑地ではありません。迎暑地です。この国の人たちは、この暑さを求め、寝汗をかく経験のために来るのです、と。
なんだ、そうと知って眺めれば…、きりりと冷やしたプロヴァンスワインがうまい。
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エズ村に立ち寄る。岩塊にへばりつくような家波。 |
その路地はいい味がある。 |
ついでにモナコの衛兵。 |
エクス・アン・プロヴァンス観光後、ついにアヴィニョンに至る。
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アヴィニョンのメインストリート。メリーゴーランドは他の街でもよく見かける。 |
右が法王庁。左はノートルダム・デ・ドン教会。 |
ローヌ河とサン・ベネゼ橋。この上流にシャトーヌフ・デュ・パプ、エルミタージュといったワインの名醸地がある。そして、そのはるか北に私の最も好きなピノ・ノアールの産地ブルゴーニュ。 |
14世紀にローマ教皇の宮殿が置かれたところ。遺跡に抱かれたようなホテルに泊まる。部屋の窓からライトアップされた夜景が見える。だいたい写真を撮る習慣がないから、忘れる。周りの人たちがカメラを構えるので、そうかと思い出して、少し撮る。セザンヌやゴッホは割愛して、やっぱり今宵のローヌワインはうまい。
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ポンデュガール。ローマ時代の水道橋、…大きい。 |
アルル。市庁舎、教会、広場はセットです。 |
コラム 2009年6月26日
![]() (院長) 内田 勝己 |
チョコレートを小さく一口かじる。
甘さと香りが広がるのをじっくり感じる。
飲み込ない。
口の中のあらゆる部分で味わう。
やがて、唾液でいっぱいになる。
それでもがまんして、チョコレートを味わおうとする。
おいしい。
が、何かが欠けている気がする。
ついにあふれそうになって、飲み込む。
その瞬間、満足が駆け巡る。
そして、もう一口、今度は大きくがぶりとかじる。
私の幼いころの記憶です。
母に手をひかれて行ったお店の棚に大きなチョコレートがありました。私はその一番大きいのを買って欲しかったのですが、母がかごに入れたのは、一番小さいやつでした。ほんとに小さくて、すぐになくなってしまうと思った私は、ちびちびとかじって長く持たせようとしたのです。でも、だめでした。そんなことをしていたのでは、おいしいけど、おいしくない。飲み込まないと、そしてその瞬間にこそ、最もおいしさを感じるということに気付いたのでした。おいしさを感じることを保持し続けられないのだ。その衝撃は、その時の情景をリアルに私の記憶に刻み込みました。
当たり前といえば、当たり前のことです。しかし、一般化して考えてみると、楽しさといったポジティブとされるものも、苦しさといったネガティブとされるものも、すべては流れの中にあって、瞬間瞬間に姿を変えて行く。たとえ永遠に思える状況も、やがては姿を変えて行く。なんていう風にとらえることができます。
みなさんも、幼いときの記憶を掘り起こしてみてください。じっくり眺めてみれば、深遠な気付きをすでに持っているはずです。
だれでもです。
今回、ご紹介するお店は、沖縄・東南アジアのスパイシーな料理と泡盛、それに音楽がコラボする‘くんくんしーらや’。上大岡時代はご近所さんでした。時折、ここのカレーを無性に食べたくなるのです。
- くんくんしーらや
- http://kunkunsi.com/
毎週毎週、色とりどりの花が、いらっしゃる方をお迎えします。
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コラム 2009年6月2日
6月2日は、横浜港開港記念日。
しかも今年は150周年ということで、お祭り騒ぎの真っ最中。
生まれて以来、横浜市民の私です。そんな雰囲気を垣間見ようと、時間をつくって歩いてみました。
空を舞うブルーインパルス。 |
飛行船は‘Fly With Me’と |
帆を広げている海王丸。 |
毎週毎週、色とりどりの花が、いらっしゃる方をお迎えします。
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コラム 2009年4月30日
たまには、こんな感じもいかがでしょう。
“うまいものシリーズ”です。
心をくすぐり、ぬくもりをもたらす。
時にしかめっ面や泣き顔を笑顔に変える。
いわば、どんなセラピーにも勝ると言える、そのひととき。
症状や悩みを忘れて、没頭しましょう。
おいしい!
うまい!
この一言の前に、敵も味方もありません。
当院ではしばしば食の話が飛び出します。食養生ではなくて、クライアントさんとのうまい店情報の交換です。そんな中から、私がチョイスしたお店を紹介します。ただ、少々ローカルな話題になってしまうのは、ご容赦ください。
第1回は、いろいろ考えましたが…。
横浜は関内にある焼肉屋さん。「かりん」です。
かつて、私は、二年間にわたって玄米菜食を実行していました。からだによさそうだからということで、気軽に始めたのです。当初はなんだか体調がよい気がしました。ところが、肉類を使用していない食品はとても少ないのです。大変なのは外食するときで、メニューの中から、肉のないものを探すのは至難のわざです。サラダですら、ベーコンなどが使われていたりしますから。そんなこんなで、次第に食べることに楽しみを失っていく自分に気づきました。
そこで思ったことは、何を食べるかより、どう食べるかが大事だということ。何を食べたとしても、からだじゅうの細胞がウヒャウヒャ喜ぶように食べることです。からだに悪そうとか、これ食べたら太りそうなどと思いながら食べるなど、もってのほか。おいしくいただくことこそ、健康の秘訣です。
と、言うことで、私は肉も好きです。そんな私が「かりん」の肉を食べたとき、ああ、玄米菜食にこだわってなくてよかった!と、心の底から思いました。海鮮もいけますが、肉の美しさとおいしさは格別です。また店のつくり、店主夫妻の人柄も、すてきな店です。
お店の詳しい情報は以下のサイト(ぐるなびとキリンビール)をご覧ください。
http://r.gnavi.co.jp/p706400/?ak=ZEFGcGtwQr0%2BfW3Rk2tUFGDjOewRqfLrbKXcvs7uweg%3D
http://www.kirin.co.jp/brands/braumeister/meister/yokohama/memo/index4.html
先週の花 |
今週の花 |
横浜産たけのこ(父が掘って持ってきた) |
それを丸焼きにしてみました |
コラム 2009年4月16日
今回は少し語り口を変えて、あなたに向けて、私が最も伝えたいことを書きます。
あなたというのは、たった今、この文章を目にしたあなたのことです。
あなたは、少なからず何かに悩んでいる。でなければ、このページにたどり着かないでしょうから。
症状、痛みだったり、病気だったりに悩んでいるあなた。
家族関係、愛する人との関係、職場の人間関係、あるいは友人関係に悩んでいるあなた。
仕事のことで悩んでいるあなた。
お金のこと、預金残高や財布の中身について悩んでいるあなた。
そんな悩みを抱えている人といっしょに過ごすことの多さに悩んでいるあなた。
私のところへ予約を入れようかどうしようか迷っているあなた。
また、かつて来たことのあるあなたにも、将来くるかもしれないあなたにも、いつか会った方にも、いつか会える方にも、そして会うことのない方にも。
整体院というよりは、何でも相談所みたいな私のところで、さまざまな状況の方に出会って、私なりに確信したことの一つを書いてみます。
人生の悩みのただ中にいるあなたは、真っ暗闇にいるのかもしれない。
右を向いても、左を向いても、どっちをみても果てしない闇の中にいる。
そんなとき考えるのは、このままだったらどうしよう、もっと悪くなったらどうしよう、という将来への不安。こんなことになったのは、あの時、もっとああしておけば、こうしておけば、あの選択を間違えてしまったからだ、という後悔。
それらは、あるかもしれない未来の想像や、あったかもしれない過去の記憶に過ぎない。
いや、現在進行形で悩んでいる、と、あなたは言うかもしれない。でも、たった今のあなたは、悩みからほんの少し目を転じ、この文章を読んでいる。手元のそのマウスでこの画面上の好きなところをクリックできるし、検索ボックスには好きな言葉を入力できるし、電源を切って何か別のことをすることができる。それより何より、何を考え、何を感じるのかを好きなように選択できる。想像や記憶に捕らわれることなく、そういう自由を行使できる。そのことを、たった今、まず確認していただきたい。
それはそうだろう。わかるよ、でも、と、あなたは言う。でも、悩みは現実で、いまこそ苦しんでいるのだ、と。
私は、あなたにうかがいたい。
あなたの精神は何を考え続け、感情は何を感じ続けていますか?
病気のことを考え続け、不快な感情を味わっているのではないか。
気になる他者のことを考え続け、不快な感情を味わっているのではないか。
一生懸命行動するのに成果ないと考え続け、不快な感情を味わっているのではないか。
お金の不足を考え続け、不快な感情を味わっているのではないか。
苦しみ。悩み。あなたは、それを考え続け、不快な気分でいる。
あなたは、まるで不快になるために生きているかのようだ。同じような状況にありながら、にこにこ笑っている人もいる。そんな人を見たことないだろうか。だとすると、問題なのは、状況もさることながら、考えと気分ではないのか。
なぜ、あなたは、正常に働いてくれている寡黙な細胞諸器官より、不調な部分により多く寄り添っているのか。
なぜ、自分自身や愛する大事な人よりも、嫌な他者を気にかけているのか。
なぜ、自分の存在証明を他者にゆだねているのか。
なぜ、いま手の中にあるものを卑下して、手の中にないものに飢えているのか。
あなたがより多く心を寄せている方向へ、状況は動いている。
それは、たとえば、こんな感じ。
ディスプレイには暗い光景が映っている。あなたは、じっと眺めて、ため息をつく。そして、魅せられたように、より暗い部分をクリックする。そこに開くのは、さらに暗い光景。あなたは首をふる。こんなはずじゃなかった。だが、またしても魅せられて、その中でもいっそう暗い部分を見つけ出し、クリックする。もっと暗い光景が広がる。あなたは、その中でも…。
これが、あなたがやっていることだ。いつまでそれをやり続けるのだろう。
精神は何かを考え続け、感情は何かを感じ続ける。それは止められない。止められないが、何を考え、何を感じるのかは、選ぶことができる。ならば、その考えに少しでもよい解釈を付け加え、少しでもいい方を向いた考えを抱き、快い感情を求めればいい。より暗い部分ではなく、あなたがクリックすべきなのは、ほのかに明るく見えるその箇所だ。そうすれば、クリックするごとに明るい画面に切り替わる。いっぺんに煌々とした明るさになる必要はない。ほんの少しの明るさへ、気分のいい方へ考えを振り向けるだけだ。
だからといって、暗い部分へ目をやるな、と、言うのではない。見るなと言われて、見たくなるのが人。暗い部分も見た上で、でも、選択するのは明るい部分にするよう心がける。
今まで、暗い部分を見つけて、クリックするのを得意としたあなたなら、そうではない明るい部分を見つけるのはたやすい。
苦悩した人は、人生に喜びを見出すのはたやすい。やがて、ささやかな喜びが、増殖し始めるのに気づくはずだ。きっと状況は変わる。あなたは、強さを取り戻す。そして、あなたは、あなたの存在、そのものを楽しむことを思い出す。
わかりにくい文章だなあと思う方が多いかもしれません。おいおい詳しく書く機会を持ちたいと思っています。
ところで、ここに書いたのは、あくまでも一つの意見です。また、このような考え方はけっして新奇なものでもありません。いろいろなところで、いろいろな人が、いろいろな形で伝えようとしていることです。悩む時というのは、外から来た状況に巻き込まれてしまったと思い込み、主導権を失ってしまうものです。その結果、無力感とより一層の悪化をもたらします。悩んでいる人自身が、主導権をとり返し、状況を変えていくためには、こうした視点が相当有効です。
そんなことあるか、と、反対していただいてもかまいません。まあ、保留ぐらいにしといて欲しいですが…。もちろん、うなずいていただけたら、それはとてもうれしいことです。特にガンを始めとする、治りにくいとされる病気の方や、困難さのいわば”どつぼ”にハマった感じの方には、ぜひともわかっていただきたいなあと思っています。
いずれ、花は散る。
それを知るが、嘆かず。
ただ、いま咲き誇る花を楽しむ。
やがて、その時、散る花を楽しむ。
今週の玄関の花

コラム 2009年4月9日

ランドマークタワーが
見えるはずなんですが…。
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少し時間があったので、すぐ近くの大岡川まで散歩に出かけました。桜は満開で、たくさんの人出でした。 両岸から川面におおいかぶさるように咲くので、橋からの眺めが、私は気に入っています。 |
Y高のボート部の練習も優雅にみえます。
花を愛でるなら左岸を歩き、花より団子なら右岸を歩きましょう。この写真ではわかりませんが、屋台がずらっと並んでいます。

今週の玄関の花は、桜と野草です。

コラム 2009年1月8日
2009年になりました。皆さんは、どのように年を越されたでしょう。
日付が変わるのは毎日のことなのに、一月一日というこの日に関しては、なんだか改まった気分になるのは面白いですね。そんな気分をもっと味わおうと、私は鎌倉の鶴岡八幡宮へ初詣に出かけました。行こうと決めて家を出たのが昼を少し過ぎていましたから、境内へ入るとすぐ行列です。はるか先の方で上げ下げされるロープが、行列を少し進ませては、しばらく止めるのを繰り返します。私は、行列の中ほどにくっついて、その流れに乗りました。見えるのは、人の頭と背中ばかり。普通なら思わず顔をしかめたくなるような混雑ぶりです。ですが、今日ばかりはそれと知っていてやってきた。ならばと、背中を照らすお日さまにポカポカ、ぬくぬくたたずんだのでした。ふと見上げれば、抜けるような青い空。鳥がスーッと滑るように飛んでいます。境内の木々の緑も鮮やかです。いつもはせかせか拝殿へ一直線で、眺めることもなかった景色です。行列に並んでみるのも悪くないと思えます。
そういえば…、「お面買ってェ!」と駄々こねる子ども、「頼朝ってなんだっけ?」「入場料とかいるのかな?」みたいな会話をしている紋付袴の若いの、しっかりつないだこの手だけは離すまいとじっと寄り添う着物姿の老夫婦。そんな人、こんな人が面白くてかわいくてたまらない気持になっている私に気づきます。一番面白かったのは、結婚間近らしいカップルで、ずっと喧嘩しています。結婚となりますと、親やら親戚やらを無視するわけにはいかないですが、それがいつの間にか二人の間の火種になったりして。でも、いいねえ。なぜって、あなたたち、それでも拝殿へ向かって進んで行くんだもの。大丈夫大丈夫、きっといい夫婦になってください。
いろいろな人がいて、いろいろな事が起こるこの世界、改まった気持ちで眺めてみたら、めでたく見える。だから新年は「おめでとう」なのでしょう。
日が陰る頃、私はようやく参拝をすませ、破魔矢をいただいて帰ってきました。

あらためまして…
新年あけましておめでとうございます。
めでたさついでに、二代目を襲名しました‘かのん’の写真をのせます。もうすぐ一才になると思われます。思われると言いますのは、犬猫里親募集サイトで出会い、去年の8月にやってきたやつだからです。誕生日は推定するしかなく、一月下旬から三月上旬です。人懐こくて、ちょっと臆病、やっと慣れてきたところで、そろそろ皆さんの前にも登場するかもしれません。そのときは、先代同様かわいがってやってください。
先代かのんはと言いますと、暑かった去年の7月の終わり、逝きました。半年近くたった今でも、思い出すと切なくなります。ご報告まで。
犬猫里親募集サイト
http://www.satoya-boshu.net/
コラム 2008年6月19日
今回は、内田整体院ではどんなことをしているのか、です。
「どんなやり方なんですか?」などのご質問はとても多くいただきます。
せっかくそう訊いてくださったのに、なんだかうまく答えられないことが多いのです。大変申し訳ないことですが、一言二言で、こうやりますと言い切れるものなのだろうかと悩みます。電話の向こうで質問なさっている方の状況はいろいろです。たいてい身体的症状をお持ちになり、それ以外にもさまざまな悩みを抱えていらっしゃる。病院に通うのはもちろん、その他にもいいと言われるところには行きつくしている。そういう方に対して、私にできることはなんだろう。
「どんなやり方なんですか?」最初の出会いの質問で、私はいつも原点に帰るのです。
とはいえ、ある種の手順はありますから、それをご説明しましょう。
まず、お話をうかがいます。
次に、話し合いです。
ここまでで、終わる方もいます。次の整体術を施すよりも、しっかりお話した方がいいと思われる場合です。
整体術を施す場合ももちろんあります。整体術で主に使うのは、気功法のような、野口整体で言う愉気のような、手当と言ってもいいような、私流の方法です。他でも似たような方法を行っている方もあろうかと思いますが、一応、私、内田流と言っておきます。骨をポキッとやるやり方や、マッサージのようなやり方ではありません。
で、整体術が終わりますと、またお話です。ここでのお話は、始めのお話と整体術の際に身体から読み解いた情報を交え、この後、どうして行くかの対話が中心になることが多いです。
以上が、通常の一回の流れで、このまとまりをセッションと呼んでいます。これを必要に応じて回数を重ねて行きます。セッションとセッションとの間隔は、はじめのうちは短く、様子を見ながら徐々に長くすることが一般的です。そして、最終的には来たいときに来てください、となります。
だいたいこんな感じなのですが、整体術よりも話すことを大事にしているなんて、ずいぶん面倒くさいことをするんだなと思われた方が多いかもしれません。
そうですね、こんな段取りでは人数をこなせません。ご紹介でいらっしゃる方や、家族みんなが通ってくださる方などとても多いのですが、それぞれの話の内容はたとえその方の家族であっても漏らさないよう注意します。また、待合室がありませんから、クライアントさん同士が重ならないよう時間間隔を充分あけます。こうして、なるべくプライバシー保護に努めています。ですから、面倒くさいと言えば、めんどくさいかもしれません。それでも、こんな風にしている理由は、見方を変えてみることに挑戦しているからです。
見方を変えてみる。
たとえば、痛み。いやなものです。不快です。どうにかしたい。もしこのまま治らなかったら、いや、今よりもっとひどくなったら。そう考えたら、いやでいやで、怖くてしかたない。
そこでたいていお医者さんにかかる。医師の見方を取り入れるわけです。この段階で治れば、言うことなしです。でも、残念ながら思ったような成果が得られないこともあります。そこで、別のところへ行ってみる。つまり、別の見方をしてもらいに行くわけです。そこで成果が得られるかどうか…。
ここで着目していただきたいのは、成果が得られるかどうかではなくて、痛みを悪いものであって退治しなければいけないという見方で、すべてが動いているということです。痛みの出ている膝だの、腰だの、肩だの、頭だのを切り捨ててしまいたいとおっしゃる方さえいらっしゃいます。
でも、ちょっと待ってください。いやでもなんでも、その痛みは他の誰かが作り出したのではなくて、痛みで悩んでいる方自身が作り出しているということです。
そんな馬鹿な、なにを好きこのんでわざわざ痛い思いなどするものか。
わかります。わかります。わかりますが、いやだと思い続けても痛いのなら、少しの間だけ見方を変えてみませんか? 泣いている赤ん坊をうるさいなあと思い続けるより、赤ん坊は何を望んでいるのだろうと眺めるように。いやな痛みだけれど、何か言いたいことでもあるのだろうか。ちょっと優しい気分でそんな風に見てみませんか? お医者さんにかかりながらだって、そんな風に見ようとすることはできますよ。
そういえば、上司がかわってから仕事がやりにくいんだよな。
そのころからかな、腰が重たくなったのは。
そういえば、最近夫婦仲が悪いの。
そのころからかしら、首が凝っちゃって。
そういえば、また、母と喧嘩したっけ。
そのころから肩が痛むような気がする。
そういえば、…。
たくさんのそういえば。まるで、机の引出しに丸めて詰め込んだゴミのように、心の隅に丸めこんだ思い。見て見ぬふりはケッコウ努力のいるものです。見ないんだったら捨てればいいのに、捨て切れないのは、怖いからでしょうか。それとも宝物をいっしょに丸めこんでしまった可能性があるからでしょうか。どちらにしても、ちゃんと分別して、宝物をみつけて利用して、残りかすは清掃局に持っていってもらえばいいんです。そうすれば、心が楽になります。心が楽になれば、身体が楽になります。
そういうけれど、思い当たるものはないんだけど。
もっと深いところからの呼びかけかもしれません。魂とか宇宙とか…。
一人の人を見るとき、いろんな見方、見え方があっていい。そして、これが内田の見方です。目指すのは、楽な身体と、愛にあふれる自由な心。
最後にお断りを一つ。心に目を向けてお話すると、言葉の使い方などから勘違いなさる方がまれにいらっしゃいます。内田整体院は、どの宗教団体とも関係はございません。念のため!
コラム 2008年4月18日
私は猫がきらいです。
でも、うちには猫がいます。
あれは、二年前の春、まだ上大岡の丘の上に借家住まいしていたときでした。
家へ帰りつこうという私の足元に、「ニャー」と、どこからともなくやってきた子猫がまとわりついてきました。追い払っても、追い払っても、からみつくように離れません。そして、あつかましくも玄関にまで入ろうとするのです。私は怒って猫を押しのけ、ドアを閉めました。それでも猫はあきらめません。その後数時間にわたって、ドアの向こうで鳴き続けました。
翌朝、玄関を出ると、昨日の猫が駆け寄ってきます。
夕暮れ、帰ってくると、その猫がまとわりついて玄関に入ろうとします。
朝、駆け寄ってくる。
夕、当然のように玄関に。
妻は、猫がごはんをどうしているのかな、などと心配しているようでしたが、私はそんなこと知ったことでなく、近所迷惑に思われていやしないか、早くどこかへ行ってくれればいいのにと思うばかりでした。
そんなことが続いて、一週間もしたころ、私はある症状にみまわれました。ちょっときたない話で申し訳ないのですが、出るものが出ない、出ないんだけど出る。便秘のような、下痢のような…。トイレから出ては、また入るの繰り返し。シャワートイレを使っていても、肛門がだんだんひりひりしてきます。
私はトイレに座ったまま、この症状の象意─象徴する意味─をつかまえることにしました。その気になって意識を向ければ、とても簡単でした。便と私の肛門、私とトイレのドア、猫と玄関のドア。それぞれの関係は、相似です。外と内、境界でさまよう様は三つとも同じです。このことに気付いたとき、私はあきらめました。猫嫌いのラベルを掲げ続けるには、ほころびが大きくなりすぎです。素直になるしかありません。私はトイレから出ると、妻に告げました。
「あの猫を飼おう」
その瞬間、満面の笑みを浮かべた妻。
私は悟りました。妻は、私がそう言い出すのを今か今かと待っていたのです。妻にはお見通しでした。いつしか、私の目があの猫の姿をさがすようになっていたのを。私は悔しくて、強い口調で言いました。
「動物病院で健康診断してからだ」
私の症状はすぐに治まりました。
猫は、ほぼ異常なしだったのですが、ショックというか、なんというか、彼女は子猫ではなくて、高齢猫だったのです。それゆえ、腎臓と肝臓の数値が今一つ。フクザツな気持ちでした。でも、彼女は元気です。それに行儀がいい。トイレはすぐに覚えましたし、爪をとぐのは爪とぎおもちゃのところだけですし、テーブルの上には飛び乗りませんし…。たいていの場合、犬のように私のそばにいます。
それからほどなくして、探し続けていた不動産情報が舞い込んでくるのですが、この猫のおかげかどうか…。それは別の機会に。
内田整体院院長 内田勝己です。
東京は人形町、目黒、横浜は金沢文庫、上大岡、ずっとさすらうように移ってきましたが、一年半前から井土ヶ谷の地に移り、少し腰を落ち着けるつもりでいます。そんなわけで、金沢文庫時代から7年近く続く、このホームページもほったらかしはやめて、時折、こんな文章を載せていきます。不定期更新になってしまうと思いますが、どうぞよろしくお願いします。感想、それから質問もお待ちしています。




























































