コラム 2012年4月26日 症状と思い込み〜具体例・・・シリーズ「1つの考え」
人が世界を認識するには、思い込みを通すしかない。
思い込みによって、経験する世界は違う。
この思い込みを検討するシリーズです。これから書き続けて行こうと思うコラムシリーズですので、その度毎に前置きするのは不便です。そこで、名前を付けました。「1つの考え」シリーズです。いろいろ考えたのですが、なかなかしっくり来なくて、結局、カギ括弧を付けて表現することにしました。
それから、このコラムにもいくつか出てくるのですが、別途コラムで記す予定の項目があります。それには(*)をマークしておくことにします。
さて、前置きはこのぐらいにして…、
思い込みを検討するには様々な切り口があります。今回は、まず整体院らしく、症状と思い込みの関係を見つめてみます。
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実は、このホームページ上の最初のコラムから、それは示されています。
「猫ぎらい」。
当初、私は猫が嫌いという思い込みを持っていました。小さい頃に犬を飼っていたことがあるからなのか、どうか。その始まりは、ここでは追求しません。とにかく猫が嫌いだった。そこへ、一匹の猫がまとわりつくようになる。いつしか、私の目はその猫を追うようになります。
ちょうどその頃、症状が現れます。
…出る物が、出るんだか出ないんだか、出ないんだか出るんだか…。
私は、症状の象意をさぐるという道具(ツール)を作動させます。
すると、私の症状が、玄関先でウロウロする猫の様子と相似形であることに気づきます。
そこで私は、猫に注意を向けます。私はこの猫にどのような思いを抱いているのか。どうしたいのか。どうして欲しいのか。そうやって、私は自分自身の気持ちに気づきます。
それは、この猫が好き、です。
これは、元からあった猫が嫌いという思い込みとは相容れません。だから、このような症状が出ているのではないかと直感しました。
私はあっさりと、猫が嫌いという思い込みを、この猫が好きという思い込みで上書きしました。いきなり、猫全般が好き、に拡張してしまってもよかったのですが、まあ、無理をせず、この猫限定で好き、に書き換えたのです。
そして、症状はなくなりました。
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この事例は比較的簡単です。猫が好きか嫌いかは個人の嗜好の問題で、生き方にかかわるものではないからです。それでも、嫌いなままでいるより、好きになってよかったな。なんとなく人生が豊かになったな。そう思います。他に例を挙げるとすれば、嫌いな食べ物だと思い込んでいたのを、あるきっかけで食べてみたらおいしかったから、好物になった。これも似た構造を持っています。やはり、嫌いなままでいるより、好きでいる方が、なんとなく人生に潤いがもたらされるのではないでしょうか。このように思い込みを書き換える前と後では、なんとなく自由度が増す感じになることが多い印象があります。
それでは、もう少し深い、生きる、存在などと関わるような思い込みの場合はどうでしょう。
それを記したのは、「腰痛の発症と消失〜フランスから」です。
私はフランスに到着した翌朝に腰痛を発症します。
旅行を満喫するはずなのに…。
様々な手を使いますが、どうにもこうにも解くことができません。そればかりか、どんどん考えが浮かんでしまって、本質が見えにくくなって行きます。ここで救いだったのは、私が楽しむ気分を失わなかったことです。症状のせいで、楽しむことが出来ないというポジションに立つなんて、まっぴらごめんだったことです。このことが、次のプロセスを開きます(*)。
モンサンミッシェルの風景に感動して、あらゆる考えのない「今ここ」へ滑り込みました。この状態は、言葉では説明しにくいです。言葉は考えですし、過去に属します。いやいや未来を考えているんだ、といっても過去です。未来を考えるとき、経験や知識を未来へ展開して考えています。その経験も知識も過去からしか来ません。
ところが、「今ここ」には考えはありませんが、すべてがあります。そこへ入ることで、たとえるなら、水面をかき回していた考えがやむようなものです。やっと水底が覗けます。
私がそこで見出したのは、自分なんて、自分ごときが、といった、自分を卑下するような思い込みでした。これは、日本人に多い思い込みの1つだと思います。何の気兼ねもなく手放しで喜ぶなんてことはなかなかないでしょう。たいてい、謙遜とか、反省とか、勝って兜の緒を締めよ的な教育が主流で、十全に自己肯定する暇がありません。なにしろ、親の愛情を獲得するために、いい子を演じなくてはならない子が多すぎます。親の希望というか都合(親の思い込みですね)に、全面的に適う良い子であるわけがないので、罪悪感を背負い込みます。それが、また自己卑下につながる。
…なんてこった。反抗しろい。
おっと、この辺りについても、(*)を付けておきましょう。
で、話を元に戻します。
私は自己卑下している思い込みに気づきました。このときは書き換えをしていません。気づき、認めたとき、自分のもっと深いところからの「それでもいいよ」、という気分がわき上がってきて、それに浸っただけです。(*)
こうして症状はなくなりました。
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さて、もう一つ。今度は積極的に思い込みを書き換えようとした事例です。
「事例:階段落ちと右足首1&2」です。書き方は、今回の趣旨とはちょっと視点が異なりますが、それでも書き換えを狙って書いた文章なので、本文を読んでもらった方がいいでしょう。ただ、思い込みという言葉ではなく、イメージという言葉を使っていますが、同じです。階段から落ちて、強烈に思い込んでしまった構造の破壊。それを書き換えようとしています。痛みを従えること、怒りや利得に関しても、自分が症状の犠牲者(*)の立場に立たないように、思い込みを選んでいます。
あきらめず苦労して芝居へ行くというのは、症状のせいで出来ないに陥らないためです。
「〜のせいで出来ない」は「〜」の犠牲者の立場に自分を置くことになるからです。もちろん出来る範囲になってしまいますが、その出来る範囲というのは、たいていの場合、チャレンジしないと分からないはずです。
それから、病院へ行かないという選択は、自分の自己治癒力を信じるという思い込みを促します。包帯や湿布をしないというのも、自己治癒力への信頼という思い込みです。
ここで勘違いしていただかないように、本文と同じように強調しておきます。こんな風に同じことをした方がいいとか、病院へ行ってはいけないなどと言いたいのではありません。本当に個別に判断するしかないのですが、お医者さんの助けが必要という場合には行くべきなのです。ただ、その際に、気をつけた方がいい思い込みがあります。
それは、お医者さんによる診断や処置、切ったり張ったり、注射や薬があったとしても、最終的には自分自身の自己治癒力が頼りだということです。医師に出来るのは、その知識、技術、薬を使用して、自己治癒力に介入することだけです。お医者様に治してもらうという思い込みは、自己治癒力を人格化してみたら、「なんだよ、どうせ俺のこと信じてやしないんだな」って感じになるでしょう。これを完全に味方にして、力を発揮してもらうには、それに沿った考え方を取り入れた方が得策です。
だから、病院へ行くというのは、病院という道具を使いに行くだけだと思った方がいいのです。ここでは、語弊があることを承知で道具という言い方をしましたが、その道具は物ではなく人です。使いこなすには、人間同士であることを忘れてはいけません。このような立場を取った方が、遠慮せずに質問などして納得し、チームとして機能することができますから、効果が出やすいと、私は思い込んでいます。
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以上、すでに記してあるコラムの文章を利用して、症状と思い込みの関係をみました。
症状の一番の役目は、異変があることを知らせる機能に違いありません。でありながら、見方によっては、それ以外の豊穣な機能が備わっています。ここで気づいておいていただきたいのは、次の2点です。
症状のあるところには、相容れない思い込みが複数存在する。
症状は、それら思い込みに気づくための扉である。
しかし、ここまででは、まだ表層でしかありません。さらに突き詰めて行くには、別の角度からの検討が必要になります。
また、次回以降に続けましょう。
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